2006年
3月5日

≪今朝の聖書から≫ 
 今朝は“荒野の誘惑”と呼ばれている箇所を取り上げます。マタイもルカもこの荒野での出来事を大切なこととして取り上げています。マルコによれば、“それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた(1:12-13)”とごく短く書かれているだけですが、マタイ、ルカはそれぞれ10節以上を費やしてその内容を詳しく伝えています。イエス様の福音宣教のはじめにこのことが記されていることからも判るように、“荒野に追いやった”とあるのも、イエス様に対する降りかかった試練と理解するよりも、その何倍も、イエス様の能動的な働きだったという理解の方が正しいでしょう。マタイ福音書によると“(空腹の経験の後)試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:3-4)”という有名な箇所を含んでいることが判りますし、更にその神の教えの源があることが判ります。申命記8:3には“それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった”と書いてあることを知って私達は、その意味の深さに驚くのです。このイエス様の“誘惑に囲まれた救いの言葉”にもう一度耳を傾けましょう。私達は誘惑の中にあります。このように語りかけます。「確かにそうだ。生き甲斐のない人生は空しいし、食物に代表されるような財力にばかり満たされていても、面白くはないでしょう。しかしだ!考えてもみよ。貧しくてもよいのか。今の時代は、医療を考えても、教育を考えても、みなそうだ、必要なものがあるのだ」と。しかし私達は「神様どうすれば、必要なものを得ることが出来るのですか、教えてください。我達は、自分の子供を教育したがりますが、自分が神から教育を受けることを拒むときがあるものです」と祈ることを知っているのです。荒野の出来事は主の教えなのです。