2006年
2月12日

≪今朝の聖書から≫ 
とるものもとりあえず、弟子になった人がいました。ペテロもその一人でした。今朝の聖句の次にこう書かれています。“そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが警で語られる。」(11節)”は大切な言葉です。14節以降に、イエス様としては珍しく、喩の、意味を詳しく説明して下さっています。20節に“良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである”というところまで続きます。そして弟子達に、あなた方は間違いなく、百パーセント“良い地”すなわち神の奥義が授けられている人々だと宣言しておられるのです。おそらく“その喩話の意味は何ですが’と弟子達は聞いたのでしょうが、“知る必要はない”とは決して仰ることのないのがイエス様の教え方です。今の私達の理解していることと重ね合わせてみましょう。私達は洗礼を受けたクリスチャンです。間違いもなくそうなのですが、全て判っているということもないのがその姿です。これもまたそのとおりです。弟子達もそうだったようです。ついこの前まで漁師だった弟子達が何でも判ったわけではないのです。この理解しといという努力は繰り返さなくてはなりません。完全な信仰者は一人もいませんが、その人はまぎれもなく、神の奥義が授けられたクリスチャンだということです。常に学び成長しなければならないのが教会なのです。さて今日のテーマですが、そのことをちやんと分かっている人々に御言葉が語られなければならないということです。“また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる(18〜19節)”と解説されていることに注目してみましょう。すぐ感激し、がっかりすることがあったら、私達は神の言葉も忘れてしまいそうな弱い存在かもしれません。決して“あなた方には教えない”ということは仰らないイエス様に、”まだ分からないのですか!”と言われることを承知の上で、今日も聞くことの出来る日であるようにしましょう。種まきの話が聖書にあることに感謝したいものです。

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