2006年
1月29日

≪今朝の聖書から≫ 
 今日の聖書箇所は、マルコ福音書1:40〜45です。癒しの奇跡の出来事に関するところです。まず一人のらい病人がいました。彼はらい病でした。今のように感染症などという科学的知識も与えられていない時代ですから、人々にとって病というのは不思議なものでした。不幸をもたらす悪霊の働きと考えたり、罪の結果の汚れと理解したりしました。無理からぬことかもしれません。この人はイエス様に“清めてください”と願い出るのです。願い出るだけでも立派だと思います。私達の身の回りを見ても、願い出ないで諦めていることが一杯あるようです。イエス様はこのような私達にこそ“願い求めなさいと”おっしゃっているのです。41〜42節で、この願いが聞き入れられたことが記録されています。その次に43節において、厳しく戒めているのは不思議に思えるところです。その中身は、すぐにここを立ち去ること、すなわちイエス様との関係を内緒にしておきなさいということでした。これは44節においてはっきりと“口止め”の指示として現れますが何故でしょう。私達は癒される、とか困難から解放されるということについて、何か不思議な力、魔力や因縁のようなものを感じることがあります。この時代はもっとそうでした。そこに頭をもたげてくるのが、まじない師でした。多くの人達は、イエス様をただ“不思議を行なう人”と考えました。“偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派”とガラテヤ5:20において、これらを“肉の働き”として、きっぱりと否定しています。人間が利益実現のために都合よく、不思議を語ることを、深く警戒されたイエス様は、他言しないようにという言葉で命じられたのです。ここで読み飛ばしてはならない言葉があります。41節の“深くあわれまれた”という言葉です。イエス様は哀れまれる方なのです、私達が試練に会うとき、高い所から見ておいでになる方ではなく、我々と同じ所においでの神様なのだということが判ります。もうひとつ、“祭司に見せて(社会的にも認めさせなさい)”という言葉にも豊かな内容を見出すことが出来ます。この当時、祭司が“大丈夫”と言えばもう汚れていないことの証明になった時代でした。一人だけが清められるということはなく、社会的な問題であることを大切にされたのです。

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