2006年
1月22日

≪今朝の聖書から≫
聖書箇所は先週と同じマルコ1章です。ちょっと思い出してみましょう。聖書の奇跡についてはびっくりすることを知っていて、何かを見出そうとすることはよく行ないます。しかし“網を捨てて”すなわち、生活の基盤や“網を繕う事をやめ”て、すなわち明日の準備を辞めて主に従った、弟子となった人々シモンやアンデレの業についても、私達はびっくりすることを忘れてはならないのです。これから彼らはイエス様に従って勉強し、初代の教会の基になってゆくのです。今日の箇所で“イエス様は会堂で教えられた”とありますが、きっと1章15節を語られたのでしょう。22節に“律法学者と違うことに人々は驚いた”とありますから、ここに登場する人達は、律法学者による教えについても知っていたことが判ります。権威という言葉を使うなら、イエス様に権威を見出したのです。律法学者と呼ばれることは会堂をよりどころにしていましたが、イエス様は召命の業の後に、この論争をされたことに、マルコは重要性を見ていました。24節の“神の聖者”というマルコの表現ですが、神がイエス様の洗礼の時に啓示の中で宣言なさった“神の子”と同義です。神の聖なる者という表現は、また広くオリエントからヘレニズム世界に至るまで広い地域の人々に理解できるものです。世界中で“悪魔祓い”またはそれと同質の事が行なわれていたことを知っていたマルコは、最初の記事にこの悪霊の出来事を置くことで、人々を釘付けにしたのです。それでは、律法学者達とどのように異なっていたのでしょうか(22節)。それは、ご自身の権威として語られた、ということです。律法学者達は旧約聖書の教えについて説明したのです。イエス様は教えそのものを語られたのです。“信仰とは神を信じることである”ということは誰にでも言えますが、“私は神を信じる”ということは信仰者にしか言えないのです。この奇跡の出来事から多くを学ぶことが出来ますが、私達は、“神を信じます”ということになんとも言えない不安を覚えて、“教会に集う人々は神を信じています”と説明をしようと思ってしまうのではないでしょうか。悪霊でさえ“あなたは聖者だ”と言っています。悪霊さえ従わせることの出来るイエス様の力ですから、私達の不安も全て取り去って下さる力もあるのです。

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