2006年
1月15日

≪今朝の聖書から≫
聖書箇所はマルコによる福音書1章14〜20節です。14節で“ヨハネが捕えられた後”と御言葉が挿入されています。これがどんなことであったかは、他の福音書に書かれています。後という言葉ですが、マルコの理解は、時間的なものというよりは、その役割においてと理解すべきでしょう。続く15節ですが“時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ”という福音宣教のエッセンスともいうべき言葉によって、イエス様の働きがはじめらられたことを知り、今もその言葉が如何に新鮮なものであるかに私達は驚くのです。今朝は16節以降を中心に見たいと思います。シモン(ペテロ)とアンデレがどんな経過で弟子になったかが記録されています。彼らは“弟子”になりました。私達と同じです。19節以降では、ヤコブとヨハネが同じく“弟子”になりました。生活の基盤である網を放り投げて、また修理という準備作業をやめて弟子になったのです。マルコはこのことを初代の教会に強調して伝えたかったのです。これ以降、彼らは訓練を重ね、使徒となっていくのです。私達も初めから出来上がった弟子ではなく、常に学ばなければならない教会員なのです。その支えとなったのが15節なのです。学びをしなければならないのは何時の時代も同じです。教会生活において、信仰告白、毎週の聖餐式、教会による(行政によるのではない)信徒訓練を強く強調していたのが、ファレルによって招かれたカルヴァンでした。これはプロテスタント教会と呼ばれている教会全てに当てはまることでしょう。メソジスト教会の弟子訓練も同じことです。花が咲いた後、しばらくすると、枯れて死んでしまうからです(カルヴァン)。さて私達はどうでしょうか。弟子への召命の出来事に如何に驚かなくなってしまっていることでしょう。“教会奉仕にどのように積極的か”、“新しい人がやって来たらどの程度声を掛けているか”、“どの程度にしか教会と聖書について学ぼうとしなかったのか”、“どの程度にしか地域にトラクトの配布をしなかったか”、そして“網をおいて”とあることについて、網を繕っている私達とクリスチャンである自分達を見て、“どの程度に平気であったのか”を新年度の用意として、思い出したいものです。弟子としての招きにこそ、神様の救いを見出すのです。
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