2006年
1月8日

≪今朝の聖書から≫
 クリスマスの楽しさはまだ続いていますか。この一年続きますように。マリヤに“神にはできないことはない”と語られた言葉に私達も支えられましょう。さて今日は旧約聖書からです。預言者達が神様にどのように信頼していたのか見ましょう。それは、イスラエルの人々に不和と混乱をもたらした偶像礼拝を、この預言者達がどう見ていたかで判ります。イザヤ書46:7にはこのようにあります。“彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない”と。このように人々が自分の言う事を聞かせるために造ったのが偶像だというのです。イスラエルの神に信頼している預言者達との間には大きな差があります。偶像は“どこにおいでなのですか”と聞かなくてもはっきりその据えられたところにあります。問題はその能力です。自分で移動することも出来ない、そして人間によって刻まれた姿がこの偶像の姿なのです。これは日本人の文化感からしてもよく判ることだと思いますが、不思議なことに置物に“あなたは出来ますか”とか“もし願いをかなえてくれたら、御褒美を挙げましょう”などというものです。しかし“私は主である”と自己宣言された聖書の神は、今朝の箇所においても告白されているように、“あなたは隠れたる神”なのです。ですから、尋ねるのは、その能力ではなく、そのおいでになるところなのです。このメシヤこそ、私達を落胆させることのない、キリスト・イエスとして私達においでになった神様なのです。今朝の箇所では、15節の告白に続いて再び偶像礼拝の持つ危険性・試みについて語られます。偶像礼拝を行なう人々は恥を負う、とあります。それは、“自分達の内には、救われるべき基盤のない”ことに理由があるのです。神ご自身のうちにその理由は存在することに気付いたものが、救われるのです。“わたしは隠れたところ、地の暗い所で語らず、ヤコブの子孫に、『わたしを尋ねるのはむだだ』と言わなかった。主なるわたしは正しい事を語り、まっすぐな事を告げる”とあります。私達も、教会と信仰において、確かさに不安を覚えるようなことがあったとしたら、偶像の魅力によるのかもしれません。

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