2006年
1月1日

≪今朝の聖書から≫ 
先週ここで取り上げた西條の詩は「かなりや」に1922年掲載された「クリスマスの夜にうたえるまずしき児の歌」です。クリスマスに、自分でも説明できないような憧れを抱きながら、結局は自分のこととはならない、“一般的日本人の心(そういうものがあるとすればですが)”を詠んでいるようです。今週も詩です。高村光太郎の「クリスマスの夜」です。1922年の『明星』から。

・・多くの誘惑にあいながら私も

おのれの性来(せいらい)を洗ってきた

今夜を思うのは力である

この土性骨(どしょうぼね)を太らせよう

飽くまで泥にまみれた道にたとう

今でも此世には十字架が待っている

それを避けるものは死ぬ

彼の誕生を喜び感謝するものがここにもいる  

“あと一歩でクリスチャン”という感じがします。しかし“あと一歩”は信仰者ではないのです。光太郎は『智恵子抄』でも有名です。この千恵子も教会の横にある病院に入院していました。西條と異なり、あちらこちらに、“私とクリスマス”という思いを見ることが出来そうです。いずれにせよ、この東の端の日本でも“クリスマス”はひとつの出来事でした。私が何と理解しようと如何ともしがたい出来事だったようです。今日の聖書に描かれている博士達にとっても、理解はいろいろとあります。一体何者だったのか?とか、彼らを導いたと伝えられる星はなんだったのか。しかし、最も大切なのは、この博士として描かれている人々が“救い主”の誕生を疑わず、求めて尋ねてやってきたということです。自分の救いに関することだと知っていたのです。高村の言葉を用いれば“此世には十字架が待っている”ことを知っていたのです。そして今私達が知っているように、主の救い、その存在全てが“此世”とは相容れないものでしたし、最後まで妥協はありませんでした。イエス様は誕生の時から、抹殺されることが狙われる存在だったのです。“ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった(2:3)”とある通りです。“皆同様であった”という言葉を忘れないようにしましょう。

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