2005年
12月18日

≪今朝の聖書から≫
まず[聖書豆知識:“しもべのうた”]旧約聖書『イザヤ書』の次の4箇所を、このように呼ぶときがあります。42:1〜4、49:1〜6、50:4〜9、52:13〜53:12がその箇所です。クリスマスの時に預言者イザヤの書が幾度も開かれるのは、実にこの箇所に“来るべき救い主”の有様が予言されていることが判るから、というのが大きな理由です(聖書箇所については多少異なる意見もあります)。やがて、その時になって何らかの方法でイスラエルに留まらず、全ての人々が救われることを聖書が証していることは、はっきりしていますが、その姿について、イザヤはこのような託宣を受けたのです。“神の意に反する者を全て滅ぼしつくすのだ”と考えていた人もいたでしょう。しかし救い主の姿は、しもべの姿であったというのです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった(53:3)」にはこのように描かれています。ここで“彼”と呼ばれている人こそ救い主なのです。そしてその救い方こそ、身代わりの行為だったのです。53:6に、このようにあります。“われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた”と。現代的な言い方をすれば、冤罪(えんざい)そのものです。このしもべこそ高められるのです。“見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。”と52:13にあります。[豆知識終わり]今朝の聖書『ルカによる福音書』1:43こそ、この救いの成就に期待している人の姿なのです。“母上”というのはマリヤのことです。1:38に“お言葉どおりに”とありますが、この一連の出来事を支配しているのは、人の計画を離れた、神のなさることであり、この箇所から“疑い”を読み取ることは出来ないでしょう。1:50節に注目しましょう。“そのあわれみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます”というのがその御言葉ですが、私達もまた、ここに含まれているのです。よその国の出来事なら、別に祝う必要も無いのに、クリスマス(=キリストのミサ)という理由がここにあります。
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