2005年
12月11日

≪今朝の聖書から≫
 今朝の聖書箇所は『マルコによる福音書』の一番初めのところですね。時間を見つけて、この書全部を読みとおしてみるのも楽しい仕事では無いかと思います。1節で“イエスキリストが神の子である”ことが宣言されています。ところが、イエス様のなさったことを正しく考えようとしないと、おかしなことになってしまいます。2節で、旧約聖書が紹介されているからです。マルコの理解によれば、これも福音“救いに関する知らせ”の一部だということになります。すなわち、旧約聖書も福音を指し示しているというのが、正しい理解でしょう。“福音のはじめ”と宣言した次は、“バプテスマのヨハネ”の紹介になっています。3節に“荒野で呼ばわる声がする”という言葉を忘れないようにして、ちょっと考えて見ましょう。旧約聖書は神様の救いの計画について書かれたものです。この声は、私達によって聞かれ続けていたのです。いま、クリスマスを正しく迎えるのにあたっても、耳を澄ませば聞こえてきますし、聞かなければならないのです。神様が、“贖いの業”最後の手段に打って出なければならなかったほど、聞かれていなかったのかもしれません。主の道を備えるのは私達です。ところが、私達自身の力で罪の解決を行ない、神の国を見ることは出来なかったのです。今に至るまで、もし神様の前に備えをしなかったなら、福音の始まりとも関係の無い、解決能力の無い“自力”という力であらゆることに臨まざるを得ないのです。そして自力の限界を知る世界を生きることになるのです。バプテスマのヨハネはこのことを、“私とは違う”といっているのです。“罪の告白”は信頼の告白とは違いますし、告白は自分に帰ってくるものです。しかし、イエス様に対する信仰の告白は、あらゆる苦しい罪が、神様による“解決”すなわち“救い”として私達に帰ってくることを示します。8節でこのことが記されています。水のバプテスマは、自らの罪を悔い、徹底的な厳しさとして私達に示されます。しかし、預言者のメシヤへの備えの預言は、水のバプテスマに対して聖霊のバプテスマを、罪を悔いることに対して新しい行いを、徹底的な厳しさに対して、その罪が贖われる(すなわち、犠牲によって買い戻される)ことをしめします。御霊のバプテスマは、神様との関係を受け入れることなのです。
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