2005年
12月4日

≪今朝の聖書から≫ まず、7章の6節までをみましょう。テーマは“汚れ”についてです。今朝の箇所にも、パリサイ人や律法学者という言葉が出てきます。これらの人々の有様について、私達はもう知っているとおりです。“主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」。”という『イザヤ書』29章13~14節の御言葉が問題になっています。今日の聖書箇所で言えば6節の中身です。もし私達が、何を讃美しているのかを問題にせず、“讃美しなければならない”ということで、ただ讃美したらどうなるか、祈らなければならない、ということで、何を祈っているのかを問題にしないならばどうなるか、このような事柄をイエス様は“都合の良い言い伝え”と言われるでしょう。“神から離れた教え”が“人の形式的な教え”になっているというのです。次に“コルバン”という言葉が出てきますが、これは簡単に“ささげもの”と理解して問題ないと思います(レビ記などで使われる言葉です)。モーゼに与えられた“十の言葉”の第五“あなたの父母を敬いなさい”という戒めの言葉も、神第一といっている人が、“父母のためのものは、すでに捧げてしまいました”と言って、父母に何もしなかったら、本当に神第一にしていることになるのか、という簡単なことをもう一度私達も思い出すべきでしょう。教会の伝統は大切ですが、項目を幾つかピックアップして、“これらのことなどは守っているから、私はクリスチャン”と私達が思ったらこのパリサイ人たちと同じ指摘を受けるでしょう。今の私達は、信仰が与えてくれる自由の中に生きているのです。清い・汚れているということを清潔・不潔ということで考えてみましょう。手を洗わなくても食事をするのに十分清潔な場合もありますし、簡単に洗っても決して十分とは言えないほどに、殺菌・滅菌しなければならない作業もあります。言い伝えを守っているから信仰者ではなくて、信仰があるならば、何をしなければならないかを学びましょう

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