2005年
11月20日
≪先週の聖書からもう一度≫ 今朝はもう一度『マルコによる福音書』13:5〜13から思い出すことによって学びましょう。その箇所といいますのは、13:4「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」と弟子達が、イエス様に、こっそりと聞いているところに思いをめぐらせるところからはじまります。『マタイによる福音書』4:20をみましょう、“すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。”とあります。多くの弟子と呼ばれる人達は、初めから、主イエスの教えや、これから送る事柄を知っていたとは思えません。また充分に旧約聖書について学んでいるような環境にあった人達とも言いにくいようです。ただ、“イエス様は主である”と信じていたことだけが確かなのです。イエス様と共に過ごした弟子達は、イエス様に代わってお話が出来るほどに、神の国についての理解を持っていたわけでもないのです。ですから彼らは、教えられ、学び続ける生き方をしたのです。教会に集う私達も全て、学び続ける信仰生活を送っているのと同じです。この箇所だけでなく、弟子達は、群衆に語られたことの意味がよく分からずに、“さっきの意味はどういうことですか”とか、“説明してください”と沢山の箇所で質問している様子が、聖書には記録されています。それにしても、私達は、旧・新約聖書について、知っているふりをしたり、恥ずかしいと思って聞かないでいることが多いのではないでしょうか。もっとストレートに“教えてください”と言いたいものです。洗礼を受けるときにもこのことは、あの漁師達と同じように、私達に問われました。“教会に集うほどには、私は分かっておりませんので、もっとふさわしい者になってから”とか“資格が、私などにはないですよ”などと、遠慮とも、お断りの理由ともつかない言葉をよく聞くことがあります。でも、みんなが“ふさわしくなってから洗礼を受けましょう”となってしまったら、誰が洗礼を受けるに値するでしょうか。そうではなくて、私達全ては、現に教会にやってきているのですし、私達が心を向けて知るべきことは、“神の救いを必要としている私たちなのだ”ということなのです。後の人も先の人も救われることに希望を抱いているのです。 |
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