2005年
11月13日

≪今朝の聖書から≫
 今朝の聖書箇所は、終末の前兆についてです。5〜6節は“偽の指導者”やその教えについての警告です。私達が使い慣れた言葉で言えば、“異端”といえる教え、また“まじない”や、耳あたりだけが良くて、教会にも入り込んでくる、福音に反する異教の中身をも、知らず知らずに取り込んでいくことに気をつけなさい、という戒めのことです。実際に教会の歴史においても、常に問題にされ、また教会自身が過ちに陥ってきた事を見てみれば明らかです。南北戦争の頃には、北軍の教会と南軍の教会が争いましたし、アパルトヘイトが今も生きている南アフリカの教会では、互いに相容れない状況を作ってしまいました。アイルランドでは、カトリックとプロテスタントの教会が武力で争っています。こうなると教会の外の世界のことだとは言っていられません。次の13章7〜8節は、戦争に代表されるような、争いの予告が記されています。これらの災いは必ず起きるし、人々は苦しむとあります。“そんな思いをするために我々は信仰を頂いているのではない”と言いたくなるかもしれません。しかし、これらの災いは、信仰が無くても経験しなければならないことです。おまけに、信仰のない者のこうむる損害は、回復不可能なダメ−ジとなります。壊れ方がはなはだしいのです。おまけに信仰が無ければ、9節に書かれているように“長官や王達の前に立たされた時”証をする内容も持ち合わせていないことになります。イエス様を信じている者にしか言えないことのあるのは、よく知っているとおりです。ここではこのことを証といっています。このような時にこそ、証が人々に伝えられるのです(10節)。災いの大きさをいくら口にしても、絶望が多くの人々に伝えられるだけなのです。11節において、今日の聖書の中心になる御言葉が出てきます。“証の内容はもはやあなたの人間的な努力や主張の結果を語ることから離れ、その時に最もふさわしい言葉が聖霊によって与えられる”とあります。信仰者に固い決心があったとしても、その自信に支えられている証は、人の限られた力の枠から出ることが出来ないのです。12〜13節は、言葉だけを読みますと、安らぎを与えるような言葉ではありません。しかし13節にあるように、救いは信仰によって得られるのです。災いに負けることもないのです。
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