2005年
11月6日

≪今朝の聖書から≫ 
 今朝の御言葉は、復活に関する議論からはじまっています。そしてこの復活ですが、旧約聖書の特に前半では、現れてきません。“来るべき新しい世界”という考えがはっきり記されているのは新約聖書になってからでしょう。それまでの理解はといえば、長生きは祝福のしるしではありましたが、どんなに長生きしても死と共に、全てが消えてしまうのだと考えられていた、と言って、間違いないでしょう。

 ここにまず出てくるサドカイ派の、とあるのは、彼らがモーゼの書しか聖書として認めていなかったことによります。身分も高く評価され、また経済的にも恵まれていました。

“モーゼはこう教えています”というのは申命記25章のことでしょう。“兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。(25:5)”以下に書かれた律法の内容をさしています。

 イエス様はこの解釈を、“聖書”も“神の力”も信じていないからだ、と断定されます。神の力を信じているものだけが復活もまた信じることが出来、天使のような生活をすることが、許されているとおっしゃっているのです。

 この世で私達を拘束していたさまざまな人間関係によらない関係が、その世界にはあるのです。関係があるといえば、みんなに主イエス様の花嫁という身分が与えられると聖書は教えています。当面は復活などどうでもよく、豊かに過ごすことが目的だ、などと私達が考えたら、神への信仰で生計を立てることに奔走していたサドカイ派の人々と同じくせつな的な生き方になってしまうでしょう。

 12章26節に進みましょう。アブラハムの神である、に続く、神様の肩書きは何を意味するでしょう。それは“であった”ではないということでしょう。いまもそうなのです。過去に生きた人の神は、今も神であり続けておいでになるのです。

 この世で信じていなければ、命が終ってから神様の救いに与ることはできません。主を信じているものが、復活もまた信じることが出来るのです。

 “イエスは言われた、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(ルカ23:43)”の意味が、生きているものの神を信ずるときに理解できるのです。
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