2005年
10月30日

≪今朝の聖書から≫
 今朝の御言葉は、罪に関するイエス様の理解を示しているところです。
 クリスチャンは、罪を犯します。信仰を持っていない“善良な市民”も罪を犯しますが、信仰を持っていないので、罪を犯していることを知りません。神様を知ったときに、罪についても知るのです。それは、救いについても知るからです。何から救われるのかをまず考えるでしょう。病気や、明日が不確実なことに対する不安からでしょうか。究極的には死を恐れことからの救いを示しているでしょう。

 さて、罪の話に戻りましょう。特にここで問題にされているのは、信仰上の罪です。“外から人に入るもの(7:15)”とは“口から入って排泄される物”つまり、食べ物のこと、と考えてみると分かりやすいと思います。当時は“汚れた食物”が沢山定められていました。それらの食べ物を、“汚れている”という理由で食べなかったのです。信仰深いとされた人ほど、汚れている食物に注意を払ってこれらを避けていました。精進料理を知っている日本人には良くわかることです。ユダヤ教徒は、汚れたものが口に入らないように常に注意をする生活をしています。世界中で“これは汚れていない”というシールが、ラビによって貼られた食物が売られています。イエス様は、“そんなことによって人が罪を犯さなくなるということはない”、また、救いとも関係のないことだと、仰っています。イエス様だけでなく、その教えに従った人たちもそうです。“「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。(使徒行伝10:13〜14)”などをみれば、食べるか食べないかが、重要な問題であったことが分かります。弟子達にも、このことがなかなか判らなかったようです(7:18)。人を汚す罪、それは、その人の心の中から出てくるのだ、と御言葉にあります。21節に不品行、盗み、殺人、その他これらに引きがねになる一切のものが、食べ物によらないことは弟子たちにも判ります。

 罪からの救いは、その人の内にある信仰によるのです。私達自信を主の前において汚しているものがあるとすれば、それは私達自信が持っている、神様の救いがまだ信用できない、というところにあるのです。

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