2005年
10月23日

≪20日、女性大会の報告≫  村上真理子

2年に1度の女性大会、今年は内田みずえ師を講師にお迎えして行なわれました。前回は講演の初めに行なわれた「コーラス・インマヌエル」による讃美が、2部に分けられた講演の間にあり、さらには大嶋武郎師ご夫妻による活動報告もありました。また、内田先生のお話は物静かな語り口にもかかわらず、ユーモアあり、深い洞察力による図星でドキッとさせられる具体例ありの講演だったため、休憩なしでの2時間45分に及ぶプログラムだったにもかかわらず、あっという間に時が過ぎました。

聖書箇所はTテサロニケ5章11節〜15節でした。チラシには「共に豊かに生きるために」とありましたが、講演では「互いの徳を高め合いなさい」と題されました。「パウロは、私たちの交わりに何を期待しているか?」という問いかけからはじまりました。

 私達は「互いの徳を高め合う」というとき、幾つかの間違った理解をしていることがあります。
 神によって指導的立場にある人を認めるということを「上下関係」だと思い、「その務めの故」であることを忘れてしまうこと。相手の徳を高めようとしているつもりが実は自分の意見を押し付けているだけであること。
 「自分の目の梁を知っているので、他人の目の塵をとることはできない」というのは、実は主によって気付かされた責任から逃げること。逆に、「相手を戒める」と思いつつ、実際は、相手に何の解決も提案も考えずにただ感情をぶつけたり怒るだけであることの何と多いことか。
 または「寛容」であろうとしつつその実は「我慢」をしているだけ。そのため誰かに愚痴をいう。しかし本当の寛容とは「不当であることが理解されない状態」を甘んじることであり、誰か一人にでも自分の正当性を認めてもらおうとすることは寛容とはいわない。
 聖書でいう「平安」とは、日本人が陥りやすい「こと無かれ主義」や「和を保つこと」ではなく、何らかの方法をきちんと考えることである。
 「弱い者を助ける」という教会の務めを自分だけで担い、皆で(教会で)助け合うことによって得る恵みを分かち合おうとしない、等々。
 このように、実に沢山の、一見矛盾するような、しかし心当たりのある毎日を過ごすのが私達。

 それでは、どうしたらよいのでしょう?先生はおっしゃいました、「自分の努力で、他人との関係をどうこうすることは不可能です。パウロもそうするようにとは言っていません。唯一の方法は、実はまず私達自身が、神との和解を得ることです。」と。自分自身が神との和解を得る事によってのみ、初めて他人と和解することができる。つまり「互いに徳を高める」とは、互いの関係ではなく、自分と神との関係が問題なのです。

 私達に配られた大会のチラシに「あなたとわたし、そして・・・」と副題があります。私達が誰かに対して心が穏やかでないとき、実に何と私たち自身が神と和解の出来ていないことかをもう一度思い起こし、また私達の罪に対しての寛容の極みであるキリストの十字架を忘れていることかを思い起こし、「私と神」との和解によって神から与えられる力によって共に豊かに生き、共に教会を建て上げましょう、と締めくくられ、「そして・・・」の答えは、私達各々に委ねられて講演は終りました。

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