2005年
10月9日

≪今朝の聖書から≫
 今朝の聖書箇所は「タラントの喩え」としてよく知られているところからです。自分に与えられた持ち物や力や時間を有意義に用いることの大切さ、そしてそうしたいという心の大切さを語っているようです。そしてそれもまた百パーセント正しいことです。

 イエス様の喩えの面白いのは、天国は“自分の財産を預ける”ようなもの、などと“神様がなさること”に似ているというのです(25:14)。天国は場所などではなく“なにをするのか”という理解によって確認できるのです。

 15節において、タラントを受け取っていない人は一人もいません。タラントはもともと、金銭の単位ですが、能力や賜物(神様から与えられた、その人でなければならない個性といって間違いありません)の意味にも用いられます。

 私たちクリスチャンの中には、タラントを頂いていない人は一人もいないのです。ただし、それをどのように用いるかは任されていて、神様は、“有効に用いられること”を願っているのです。“私にできることがある”ということを知っている人の口からは愚痴は出ません。タラントを開花させるために、頑張りたいという思いが出てくるだけでしょう。これがタラントに対する正しい理解です。

 16
~17節に“もうけた”とあるのは“神様の期待に応えた”ということです。しかし次に、神様の福音を理解しなかった人が現れます。せっかく与えられているのにです。彼は福音を宣べ伝えることもしませんでした。

 25節に、この“正しく用いることのできなかった人”の告白が出てきます。神様の言葉はもともと全世界に蒔かれた種であることに気付かなかったのです。神を恐ろしい人と理解していました。律法の縄目を想像していたのでしょう。

 30節にもキーワードが出てきます。“外の暗い所”です。どんなところでしょう。“神様と関係ないところ”、“神様に頼ることのできない所”という意味でしょう。この人は持っていた福音から離れ、後になって自分から離れたことを知って“歯ぎしり”をして後悔するのです。これが天国と私達の関係だとイエス様は言っているのです。

 教会の主題聖句にも“私の民は大勢いる(使徒行伝)”とあります。種は蒔かれているのです。私たちも蒔かれた種を刈り入れ、神様とその教会のために、力を出したいものです。

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