2005年
10月2日

≪今朝の聖書から≫
 私達はローマ人への手紙に“愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。”という御言葉があるのを知っています(13:10)。今朝はこの律法というのが中心のことになります。

 聖書は神様の救いに関する書物として与えられているのですから、旧約聖書において与えられた律法も、救いに関する事柄として受け取らなければなりません。モーゼも人々の生きながらえ、救われるために神に求めましたし、神様も私たちが救われるために十の戒めをはじめ、律法を私たちに下さったのです。エペソ書2:15に“数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである”とあるように、こと細かに定められた規則のことではないのです。神様はまず、律法において、神様の意思を示され、ついで私たちに罪を明らかにされたのです。律法は人の為にあるのであって、規則のためにあるのではないのです。パウロはローマ書において“愛”という言葉を使ってこのことを語っています。聖書にしるされている律法学者やパリサイ派の人々はこの“神と人に対する愛”ということには触れていないのです。新約聖書において、創造の昔から律法が私たちと共にあったように、イエス様によって完成された律法は、永遠に私たちと共にあるのです。今朝開かれた聖書の箇所においても、4章1節において“いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。”と律法の目的が記されています。永遠に神と共に生きながらえるためだというのです。律法は教え継がれなければならないのです。今の私たちにも、イエス様によって完成された信仰を伝え続けなければならないのです。民主主義の時代だから、個々人がどのような教えを知ろうが、どのような信仰を持つかも自由だという教えは聖書にはありません。その時代にふさわしい方法をもって教え続けなければ、そして学び続けなければならないのです。家族についてもそうです。教え続けなければならないと聖書は語っています。神が共にそして永遠に私たちと共にいてくださることを、その日まで繰り返して、知らなければならないのです。

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