2005年
9月11日

≪今日の聖書から≫ 
 まず
19章の13,14節をみましょう。弟子たちがたしなめた、とありますが、この叱り方は私たちにも理解できることでしょう。癒しの賜物を持った方、権威ある方として認められていたのです。

 ところが、救いに与るということについて、イエス様は次のように人々に教えました。何をみておいでになったのでしょうか。

 まず、子どもたちのストレートな要求表現です。思い返してみても、大人であるわたしたちは、どうしてこんなに自分の要求を申し上げることが下手なのでしょうか。“願うところを申し上げるが良い!”というのが新約聖書の勧めだったということをもう一度思い出したいと思います。

 もうひとつ、小さな時の心を思い出してみましょう。それは両親に対する、条件なしの信頼です。ある年になって、親といえども何でもできるわけではない、ということに気づくのでしょうが、わがままな子というものは、世界で一番力のある、親のところに逃げ込むことを知っているものです。この教えがあってから
16節に進みます。

 イエス様の前に現れた青年は、神に頼っていたといえるでしょうか。イエス様は、神に頼り、神様から力を与えていただくことを良いこととされていました。“どんな良いことをしたらよいのでしょうか?”という風に、聞いています。子どもたちとは反対の姿勢のようです。


 20
節で“それらはみな守っています”と、彼がモーゼの律法にいかに積極的であるかを申し上げます。22節で、彼は沢山の財産を持っていたがゆえに、“律法を完全に彼の力では行なえない”ことを悟って帰ってしまうのです。富と言うものはイエス様にとっては、天国にはいるかどうかという意味からは関係のないことだったのです。“らくだが針の穴を通ることの方が易しい”という有名な表現がここに出てきます。

 私たちも財産があったなら、救いのために用いたいものです。
29節の“姉妹や父を捨てて”という表現も同じことを物語っているのです。立派な家庭と財産、すばらしい理想ですが、信仰に支えられてこれらと向かい合うのでなければどんなにもろい時のあるものなのか、家庭の破壊とか、数知れない不道徳に伴う事件が私たちに教えてくれているようです。

 家族を愛したかったら、神様にそのための力を頂かなくてはならないのです。まさしくクリスチャンだけに与えられた報酬なのです。

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