≪今日の聖書から≫
ヨセフをエジプトに売り飛ばして顧みなかった兄弟たちを代弁するユダが、弟のための身代わりになろうとしているところから始まります。あわれみを求めるためにではなく、代わって苦しみを受けるために残留することを希望しました(44:30-36)。こうして長いヨセフの苦しみは“兄弟たちを変えるための神の業”に用いられたのです。彼らは代償の苦しみに参加する、そのような存在に変えられているのです。特にかつてのユダの尊大さは仕える者の崇高さに変化しています。このような経験こそが、やがてユダを、主のしもべに連なるユダ族の歴史的一歩となるのです。
先週わたしたちは、家族について御言葉から、思いをめぐらせましたが、今日の聖書の箇所では“イスラエルの同胞”という言葉で語られています。ヨセフはあらん限りの謙虚さを持って、父に呼びかけるように求めています。この時のために、神はヨセフを先にエジプトに遣わし、しかもパロの家さえ従わせるほどの存在にされたのだ、と。
さて4-5節を中心に見ましょう。“私に近寄ってください”という呼びかけこそ、ヨセフの“和解の呼びかけ”といえるものです。仲直りの呼びかけ、赦しの呼びかけと言っても良いと思います。ですから“私に従いなさい”という、強制の姿勢とは正反対のものです。交換条件で成立するような取引でもないのです。
私たちが“私に近寄ってください”と言うときも基本的には同じです。何の用意や備えもないときには対立を解決するような呼びかけにはつながらないのです。ヨセフは具体的な備えをしましたし、当事者の中の当事者でもあったのです。何が具体的な備えだったかは御言葉に記録されています。飢饉が続きますから、豊かなこの地に“近寄ってください”といっているのです。ゴセン(ナイル川の河口で、とても肥沃な地)に父のためにも備えをしているのです。“見たことを父に伝えてほしい”、ヨセフの価値観はアブラハム、イサク、ヨセフの神様にありました。
イエス様不在の中で“私のいうことを聞きなさい”という意味で“私に近寄ってください”と言うのは実に簡単ですし、自分が仲直りの当事者でなければ、“彼らは仲直りすればいいのにね”と簡単にいうことができるのです。
私たちは何をするにも、ヨセフのように何を解決するにも、聖書と教会の教えを中心にしたいものです。
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