2005年
8月14日

≪今日の聖書から≫
 ローマ人への手紙1:17に“神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。”という御言葉があります。何をして義人といえるのか、“信仰における義人(直接行ないは意味しない)は命を得る”とも“正しい行いをする人(義人)は、信仰から離れない”とも訳せるのですが、聖書全体、そしてパウロの理解からいって、義人とは何を成すかによって決定されるのではなく、如何に神に頼った生き方を信仰において持ち続けているかを示しているというのが、一般的な解釈となっています。そしてこの“書いてある通りである”というところが、今日の「ハバクク書」なのだとされます。ハバクク書にも、2章4節に“義人はその信仰によって生きる”、と書かれているのです。さて、こんなことを書き残している預言者ハバクク、今日開かれたところにおいて、特に“神に支えられた信仰”を讃美していることが分かります。17節で“田畑は食物を産しない”とあります。干ばつなどのためというより、私たちの感じるのは、戦乱のためだということです。ハバククは神の託宣を受けた預言者でした(1章1節)。この時代は、おそらくヨシヤ王の死後で、エホヤキムの治世と考えられます。南ユダの国は末期的状況にあったようです。神の戒めは軽視され、対立は内外におよび、エジプトの干渉もありました。ハバククの神に対する“このような状況は一体何なのでしょう”という問いかけに始まっています。彼は神への信頼から離れることのない人でした。神の力を疑うことはしなかったのです。ただ、その力を発揮してくださいと、願いを申し上げたのです。日本の文化でも色々な神に願いをいうことがありますが、“病気の時に効く神様”、“仕事が上手くいく神様”などと分業されていることと比べると、聖書の神は如何に全能かということが分かります。その実力を“あなたは効き目のある神様ですか”などと質問することはありませんでした。信頼しているからこそ、まだ実現されていないことに対しても信仰において讃美・感謝することが出来るのです(3:18)。完全な信頼は、まだ見ぬことを、すでに祈りが聞かれ、体験したこととして、感謝・讃美とすることが出来るのです。これが信仰者ハバククの言葉に見る神なのです
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