2005年
8月7日

≪今日の聖書から≫ 
今日は『マタイによる福音書』12:43-50を共に開きます。中心は“家庭”です。普通は一人でいることを“家庭”を持っているとは言いません。家庭というのは、父母、夫婦、子供、兄弟姉妹など関係のある人々が共に作ってゆくものです。私たちは、近所の人たちが何をしてもあまり関係ない、と思いがちですが、家庭あるいは家族となるとそうはいきません。影響を受けるのも与えるのも家庭ですし、一番喜び合えるのも家族なのです。ですから、その家の人が仕事などで遠くに住んでいたとしても、良いことだけでなく、災いや不幸の原因になるのがこの家庭ということにもなります。さて聖書は、何と教えているかを見てみましょう。ある人が神の恵みのしるしである洗礼を受け、救われました。家に救われた人がいることはすばらしいことです。それまでその家にいた悪霊はそこにいるわけにはいかなくなり、砂漠や荒野にさまよい出ていきます。神の言葉を思う存分受け入れる準備が出来た家庭になったのです。神の言葉に守られた家ほどすばらしい家はありません。しかし神の思いとは逆に、その家の開け放たれた入り口から、以前にもまして強力な悪霊が入ってきたとしたら、ますます不幸なことになります。43〜45節にこのことが書かれています。これはイスラエルの家についても言えます。エジプトから導き出された人々は神を信じ、全く清いものとされました。しかしその清い人々を襲ったのが、“今の時代(45節)”という、律法という拘束と、偶像礼拝という悪霊の支配だったというのです。次に、50節に出てくる“父の御心を行なう者”について見てみましょう。この結論は、決して冷酷な前提に立って語られているのではありません。家庭・家族を守ろうとし、しかし守ることが出来ず、自分の力の限界を知って、仕方ないと思うのが神に頼らない家庭人なのですが、イエス様は家族を守る力をも与えようと仰っているのです。“私の兄弟とは誰のことか(48節)”というのが締めくくりの言葉なのです。そして、49節で、同じ信仰を持つものが家族なのだと示しているのです。ですから、“家族の危機”という言葉が流行している時代にこそ、神の愛が必要なのだというのです。この愛に頼る限り、回復できないほどの“家庭の不幸”もないのです。家族伝道の大切さを知りましょう。
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