2005年
7月31日

《今日の聖書》
 今日の聖書箇所は先週の続きにあります。
 この箇所に進む前に、別の一箇所、ローマ人への手紙におけるパウロの勧めを見てみましょう。“あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。(16章19節)”というのがそれです。

 信仰において主に従順であることを高く評価したパウロは、“しかし”と言っているのです。この“さとい”という言葉はイエス様によっても使われています。“蛇のようにさとく”というイスラエルのことわざに出てくる“さとい”という言葉がこの言葉です。

 またこのことを理解するのに、先週の箇所も役に立ちます。“過去に縛られず、足についたちりをも払い落としなさい”というのがその内容です。

 イエス様が使われた、“鳩のように”というのは“純粋な”あるいは“ピュアな”という意味の言葉で、使徒とされたものたちが必要としている“心構え”の中心といえます。

 信仰において、殉教者的頑固さは時に必要です。しかし足についたちりを払い落とすことを忘れた姿を求められていることではない、と仰っているのです。それどころか、ローマやピラトの前に立たされた弟子のように、“あかし(教会を指し示すこと)”が出来ることが目的なのだというのです。

 苦難に冒険的に挑んだ人々によって、世界の歴史もつくられました。今の自分を乗り越えようと主の名によって力強く生きたところに、新しい道が開かれるものだということは、私たちもよく知っているとおりです。名誉・栄誉の約束ではなく、苦難(しかもこの苦難は、イエス様ほどにまですさまじいものでは決してないのです。苦難は主が肩代りしてくださっているからです)の予言とも言うべき、イエス様の言葉のうちに、私たちは智恵をいただきたいものです。

 教会に与えられている“耐え忍ぶ(10章22節)”というのはどういうことでしょうか。それは、教会の働きが順調に出来ていると言うことでしょう。いろいろと大切なことを学ぶことが出来ますが、大切なキーワード、“私の名によって”というのがあります。主を信じない人には、この言葉も愚かで無力でしょう。
 私たちは“主の名によって”ということを、“賢さ(10:16)”と考えます。
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