2005年
7月24日
《今日の聖書》 今日の聖書箇所から、イエス様が弟子たちに何を教えておられるのかを見てみましょう。 “こうしなさい”というのですから実際にそうすることが求められているのです。またイエス様は全能であるのに弟子たちを必要とされた、と書かれています。そしてこの弟子たちをとても大切にされていたのです。 36節にあるように、飼う者のない羊のように弱り果て、慰められることから遠のいている人々をご覧になったとき、必要だったのが働き人だったのです。“人々を癒すためには、直接その人に手をおいて癒すことの出来る人を必要にされていたのです”。そしてこの“弟子である”ということは次から次へ、人から人へと、引継がれていくことになるのです。私たちも、導かれ教えられ、教会において恵みに与り、救われた群に加えられたのですから、弟子であり働き人なのです。働き人をとても大切にされるイエス様は、どんな環境にもあっても大丈夫なように励まし、やり方を丁寧に教えていらっしゃるのです。 10章6節に進みますが、遠くに行かなくても、あなたのすぐそばに、宣べ伝えられねばならない人はいる、ということから指導は始まっています。“サマリヤがよいだろうか、外国がよいだろうか”と効率を考えると、本来は神様の民であったし、神の国についても知っているはずのイスラエルの人々にこそ伝えられねばならない、ということから離れてしまうとおっしゃっているのです。 また、旅行のように用事が終わったら帰ってくるような姿勢はよくないと、教えておられます。“何も持って行くな、何も用意しなくてかまわない”と言うのは、考えてみればすぐ判るように、“行ったその場所で、そのところの人として、そこのところにいる人に頼って、支えられて主の業に進みなさい”ということになります。 次に11節ですが、ふさわしいところにたどり着いたら、あたりにもっとよいものがないかと、見回すことをしないでその場所に留まることも教えられています。“その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい”と12節にあります。私たちもこのようにしたいものです。“もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう”と続きます。 つまり、ふさわしいかふさわしくないかは、伝えてみなければ分からないのです。そうしたいものです。 |
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