2005年
7月17日

《今日の聖書》
 先週、私たちの教会では、藤野千よ姉のお葬式が行われました。私たちは、キリスト教会に初めてくる大勢の人々と共に御言葉を開きます。讃美をし、祈りをしました。聖書は詩篇90篇を開きました。

 この詩篇は、偉大な事業を成し遂げた“神の人モーゼの祈り”と記されているものです。まず、絶対者なる主への期待を確信していることから始まります。10節にある“われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。”という訴えのような、むなしく響く言葉がとても有名です。

 しかし、この言葉は“確かに人生はそのようなものだ”ということで終わってはいないのです。また、神様を信じているから“このような寂しさは感じないし思わない”、ということに直接つながる、とも言っていません。14節にあるように“いつくしみをもって、われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください”に変えられるのです。

 何故変えられるのでしょうか。答えは最初(1節)にある、“神様は全てにおいて全能です”というところにあるのかもしれません。全能な神様だから、悩みも訴えることが出来るのです。相手に力がないと思っているときには、私たちは本心から訴えることはしません。

 11節以降にある“苦労”もこの全能の神の、罪に対する裁きとされます。ここに神様を信じる人と信じない人との、根本的な違いがあります。神様を信じない人は、はかない人生を知って、文字通りはかないとしてしまいます。しかし智恵を持とうとする者は、神様のみ顔の光の前で、その明るさを知り、その力を知ろうとするのです。

 聖書に出てくる、モーゼをはじめ、聖書に出てくる人たちや預言者は、世の中でいうような意味で、恵まれた一生を過ごしたでしょうか。全員と言ってよいほど、罪の解決を、神様に願い求めた日々を過ごしたといってよいでしょう。

 モーゼのように有名にはなりたいが、モーゼや預言者たちのような苦労はいやだ。これで終わっていたのではこの詩篇を私たちに与えてくださった神の御心を、台無しにしていることになります。わたしたちも“神と共に歩む楽しみに飽き足りる毎日(12節)”を求めましょう。
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