2005年
7月10日

《今日の聖書》
 8章5節に出てくる、百卒長と呼ばれる人ですが、イスラエルの歴史の中ではずいぶん権威のある存在だったようです。文字どおり“百人の兵卒の長”という意味です。9節を見てみますと、彼自身の言葉として、その様子が描かれています。権力者だったわけです。

 しかしここで“権威の下”と言う言葉で記されて内容が、まったく、神の国の世界とは関係の無い、この世のものに過ぎないことを、この権力者・百卒長はよくしっていたのです。聖書がこのことをはっきりと述べなければならないほど、その当時のユダヤにおいては、“宗教的に重んじられている者”が政治的にも経済的にも、重視されていたようです。

 また反対に、社会的な有力者には、信仰的発言権もあったようです。社会的なポジションは、その人の信仰生活のすばらしさの、なにものをも語っていないこと。信仰豊かなように見えるから、この世における地位においても、能力においても恵まれている、などということには、何の意味もないことは、私たちには当たり前のことですが、百卒長が活躍した時代はそうではなかったようです。主イエスが、宗教者の権威によって、裁かれたことが何よりそのことを物語っています。

 この百卒長にとっても、また私たちにとっても、イエス様が神様の一人子である権威のみが“永遠の救い”についての絶対の権威なのです。イエス様はこの信仰を、すばらしい信仰とされました。

 そのほかにも聖書のこの箇所には、重要なことが記されています。それは百卒長が、いつも受身であり、お願いをするものになっていることです。中心は常にイエス様にあります。百卒長は修業や訓練によって、自分の力で信仰を身につけてはいないのです。導かれたのに過ぎないのです。彼の中にイエス様が見出された“豊かな信仰”も、イエス様ご自身がお与えになったものなのです。

 私たちも、注意しなければなりません。がんばって敬虔さを身につけようと思っても、それは私達の信仰を豊かなものにしてくれるものでないことを。また幸せにも充実した日常にも結びつかないことを、忘れてはならないのです。

 百卒長の知っていたこと、“救いに関する権威はこの方にのみあること”を私たちも忘れてはいけないのです。すばらしいことに、イエス様は私たちのことを“私の証し人”と呼んでくださっています。そして私たちも、自らを“主の証し人として過ごすことが出来ますように”というとき、救いはイエス様にのみあることを示したいと願っているのです。そしてそのような信仰を、私たち一人一人のうちに“置いてくださっているのです”。
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