2005年
7月3日

《今日の聖書》
マタイによる福音書4:25-5:1に“こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。”と記されていますので,この大きな説教、7章のおしまいまでを“山上の説教”と呼んでいます。神の国の民として招き入れられた弟子たちと、また群衆と呼ばれる沢山の人達がそこにいたこともこの説教は配慮しています。“黄金律”と呼ばれている7:12もこの中に出てきます(だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である)。さてこの山上の説教、人々が驚いたように、律法学者の様にではなく権威ある者としても語られているのです(7:29)。どういう意味なのでしょうか。その内容は、律法学者のように、知識や伝統から学んだものではなく、直接神の声としてイエス様がメシヤとして語られたことによるのです。群衆は“どう違うのか”と質問されてはっきりと説明は出来なかったかもしれませんが、教えが直接メシヤからのものであること、その権威によるものであることを聞き取ることが出来たのです。それでは今日の箇所15節以降の教えの内容はどんなものだったのでしょうか。まず偽預言者を見破る神の民の力についてでした。偽預言者はかつての預言者も警戒したことです。自分の考えのみを強調し、“彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている(エレミヤ6:16)”と言われているような人々なのです。この違いをはっきりと見分ける力が、御国の子らには与えられているというのです。それはその結ぶ実によるのだというのです。しかしこのことはなかなか判断するのが難しいということも意味しています。偽預言者にしろ、偽の弟子にしろ、イエスの名を大々的に語る者にしろ、彼らに下される審判は、断罪の宣言なのです。目に見える成果そのものより、罪から離れたいという動機の大切さが教えられていることに注意しましょう。24節から土台についての教えになります。またこの箇所は、山上の説教全体の結びにも位置しています。賢い人にも、そうで無い人にも試練はやってきます。今は豪華に暮らしているとか、平和の内に暮らしているかはあまり関係の無いことだというのです。その人の人生を家に喩えイエス様は説明されています。多くの家のうち、岩盤のしっかりした基礎の上に建て上げられた、すなわち神様としっかりと結びついている人の家に、主もまた住んで下さるのです。そして今はまだ見えていないけれどしっかりした岩の必要を知った人や、これこそ我が岩と気づいた人々に「岩は硬い。こちらの方が楽!」とばかりに、誘惑は及ぶのです。どうか私たちの教会がしっかりした岩の上に建てられた教会であることを忘れないようにしましょう。
トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置