2005年
6月26日

≪今日の聖書から≫
今日の聖書箇所を開いて、殆んどの兄姉は“読んだことがある”と思われたことでしょう。特に29節などは“しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。”とあり、創造の神の業の素晴らしさと、人の思いとその功績の如何に小さなものであるかを語っているように思えます。クリスチャンでなくても、人間の思いと社会の無情であることに共感し、“私は信仰はしないけれども、聖書にある「山上の説教」と呼ばれているこの箇所は好んで読んでいる”と言う方も多いようです。しかしこの箇所にはいくつかの隠れた言葉のあることに気がつきます。それは“主に頼りたい”と思っている人にしか分からない言葉なのですが、先の御言葉に早速、その一つが出てきます。“あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(30節)”とあります。この箇所を読み解いて見ましょう。決して人間として生きることの無情さを、イエスは語っているのではないことがここから分かります。”私たちは神様にとってそれ以上に大切なもの”なのだということが分かります。多くの人々はこの箇所を最初に読んだ時、人の小ささという、反対のことを感じてしまうのではないでしょうか。また別の言葉に注意してみましょう。“信仰の薄い者”というのがその言葉です。薄いというのですから、信仰に厚い、または信仰深い、ということを問題にされていることは間違いないのです。教会はこのことを教えているのです。それが神が教会に、即ち教会の一人一人に与えられた力なのではないでしょうか。この箇所からもう一度24節に戻ってみましょう。“だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。”このように神と富とを、お互いに合い入れないものとして指摘しています。富と神に仕えることをしてはならない、ではなく“出来ない(不可能だ)”というのです。当然のことと言えば当然のことなのですが、その困難さを感じているのも私たちでしょう。その前に“心を表す目”と言う言葉が出てきますが、“目つきの良い人”というのは当時のユダヤの表現で、天に宝を積む人をさしていたのです。箴言22:9の“善良な人”の直訳もこうなっています。教会はこのような目を持った人の集まりでもまたあると主はおっしゃっているのです。
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