2005年
6月12日
≪今週の聖書から≫ 先々週『マタイによる福音書』3:1〜6で、有名な“悔い改めよ、天国は近づいた(3:1)”という御言葉が記されている箇所を開きました。また先週には“あなた方は地の塩また世の光”という、新約聖書のエッセンスのように私たちの心に響いている箇所が開かれました。今朝は“自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない(5:36)”という御言葉があります。ここから、どんなに安易に、あるいはその反対に、重大な決意を持って“誓います”と言っても、頼りないものか、まず気づかされるでしょう。教会のカレンダーではクリスマス・アドベントの前まで、聖霊降臨節が続きます。この時こそ、主を信じる者たちが如何に幸せであるか、また何を信じているのかを、ゆっくりと考えさせてもらえる時なのでしょう。さて、今日の聖書の箇所を順に読み進めてゆきましょう。21~22ですが、“殺してはならない”という旧約聖書全体を貫いている神の律法について記されています。更にて、この“殺す”という意味は、さらに広い意味を持っていることが語られているのです。もっと厳しいのです。“ばか者”、“無用な存在”という理解そのものと、旧約聖書の教える“殺す”という中身は、実はつながっているのです。教会では地獄のことをゲヘナと言いますが、当時この言葉は具体的で、エルサレムの南西にあった動物や人間の遺体の焼却場のことを指しました。裁きについては申命記16:18の内容がぴったりとした記述でしょう。聖書はずいぶん厳格にこのように語りますが、その目的は何でしょう。私たちを地獄に導くためでしょうか。そうではないのです。26節までの箇所を、特に“和解(仲直りのことです)”という言葉を念頭において更に読みましょう。24〜25節は、その実際です。神様に犠牲を捧げる、ということは、一度絶たれた神様との関係回復のことを意味します。だから中身が伴わなければなりません。つまり和解のいけにえを捧げるという行いよりも、それに勝って大切なのは“祭壇に残しておき”まず仲直りをしてからだというのです。ここでは、“ねたんでいる”ことは勿論ですが“人が私を嫌っている”ことに力点が置かれていることに注意しましょう。きっと収税人マタイも“私は嫌われる職業についている者です”と言ったのではないでしょうか。次に第七の戒めについて聖書は記します。これらの記述の目的が、人を暴きだすためにではなく。救いの確かさに向いていることに再び心を向けましょう。 |
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