2005年
6月5日

≪今週の聖書から≫
先週『マタイによる福音書』3:1〜6で、有名な“悔い改めよ、天国は近づいた(3:1)”と言う御言葉が記されている箇所を開きました。今朝の箇所は5:13〜16ですが、ここにも有名な聖句、“あなた方は地の塩である”、“あなた方は世の光である”が含まれています。教会のエッセンスのような言葉でしょう。さて、今日の聖書箇所ですが、クリスチャンの、祝福に伴う、責任について記されて言っても間違いえではないと思います。その第一に掲げられているのが、“塩である”という言葉です。塩はそれ自体が食物となるのではなく、様々な物に混ぜられその効果をもたらすものです。この世に、しかも迫害の時も、歓迎される時も、人間関係、クリスチャンとそうでない人とが、作り上げているこの世に送り出されているのだ、といえます。またマラキ書4:2に“義の太陽”という言葉がありますが、イエス様が義の太陽なら、クリスチャンは、その光をいただいて、輝く鏡のようなものでしょう。塩にしろ光にしろ、いずれもそれ自身のためにあるのではなく、他のものに味をつけ、また明るく照らすためにあるのです。よく教会では“隠れキリシタンであってはいけません”と言う時がありますが、山の上の町のように、隠れていることは不可能だ、と言ったほうが正しいでしょう。15〜16節には、この光に関する説明が更になされています。当時の生活習慣に従って説明されています。灯りを物陰にわざわざ置く人はいない、とあります。同じように、弟子たちに対しては“自分を隠すようなことをしてはいけません”と勧められているのです。キリストの内なる光に支えられた光を、人々の前で輝かせなければならないのです。そしてこの行いには目的があるのです。まず人々が良い行いを見、学ぶことにあります。次の目的は、“人々が、天におられるあなた方の父を崇めるため”なのです。このように見ますと、“神に栄光を帰す”という言葉の意味が良く分かると思います。良い行いは、その行い自体に目的があるのでもなく、それを行う人の賜物が賞賛されることに目的があるのでもなく、父なる神に栄光が帰されるためなのだ、ということになります。その効果において、調味料や保存料としての塩と同じことがいえるのです。聖書では祝福の中身について12節までに書かれています。また17節以後では“イエス様の新しい義についての教え”があると思います。この大切な箇所の真ん中(13〜16節)で、責任について記されているこの御言葉に感謝しましょう。
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