2005年
5月29日

≪今週の聖書から≫
今朝の聖書の箇所は『マタイによる福音書』3:1〜6です。どんな時代だったのでしょうか。ちょっと後の9節に“自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ”と記されていることに目が留まります。新約聖書の全ては、旧約聖書を大切にしています。イエス様も神の契約である律法の世界に来たのです。また旧約聖書の時代にも、多くの預言者によって語られたように、メシヤへの期待に支えられていたと言えます。そしてそのメシヤであるイエス様の時代を神様は用意されたということができます。独り子をこの世に送らざるを得なかったということができます。それほど律法は間違って理解され、複雑になり、“ねばならぬ”と“してはならぬ”ことになっていたようです。信仰から離れ、律法を“行うこと”が人々の理想だったのです。より完璧に律法を守るには金持ちでなければなりませんし、律法の詳しい解き明かしをすることを職業にしている人々も現れるようになっていました。律法学者と呼ばれる人々の生活を支えていたのがまさしくこのようなことだったのです。十字架にいたるまで、これらの人々が、イエス様を“自分たちの生活基盤を奪おうとする者”と理解していた様子が良く分かります。1節にある“そのころ”は2章の中身を引き継ぐものではないことはすぐに判ります。二十数年の間があるようです。イエス様のおいでになる準備の時がいよいよ始まったときという意味でしょう。「イエス様が、暗い律法主義の時代を打ち砕き、神の国を述べ伝えます」と、預言したのがヨハネだったのです。イザヤ書40:2〜3をみましょう。“ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を、主の手から受けた。呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。”とあります。悔い改めの時が来ることをヨハネは言っています。悔い改めるとは、過去のことを後悔するとか、あるいは、思い出して悲しむことでもなく、審判を恐れることでもありません。「悔い改める」とは、心を入れ替えることそのものなのです。心を入れ替えて“神の国がやって来た”という想いからは、自然に、強制されない優しさや正しさが生まれるものです。そして今私達の教会も、神の国の到来の只中に、たてあげられているのです。
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