2005年
5月22日
≪今週の聖書から≫ 今朝の聖書の箇所は『マタイによる福音書』11:25〜30です。28節にある“すべて重荷を負うて”というところはとても有名な聖書の箇所になっています。誰でも、よくよく自分の心の中を見てみるとき、ここで“重荷”と表現されているようなものがあるのを感じることでしょう。その次に“私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう”という、この重荷に対する解決の言葉がありますから、なおのこと、私たちはここのところが、まさしくイエス様が柔和な方であることを、ストレートに感じるのだと思います。ストレートに感じるということはとても大切なことです。それでは今日の聖書の箇所全体の中でこの箇所が、どんな位置を持っているのかを見てみましょう。“そのとき”と25節で書き出されている状況はどんなものだったのでしょうか。この章全体にわたってみますと、12節に“天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている”とあるのは、福音を熱心に信じる人々そのものが襲われている、ということでしょう。また、16節以下に記されているように、拒絶反応を起こす者とに、はっきりと分かれてきた時のことでしょう。イエス様は、このような時に答えて言われたのです。25〜26節は、福音が啓示であることを示しています。この啓示は、人間的な智恵と知識を誇りとしている人々には隠されているのです。次に27節においては、イエス様が、弟子たちと神様の仲立ちとしておられること、さらに、そのようなイエス様への招きが28節以下に、のべているのです。この部分ですが、“私のところに来なさい”ということ、“私に学びなさい”、そして“私のくびきを負いなさい”ということが記されています。どのひとつが欠け落ちてもいけない、と理解するのが正しいでしょう。私たちはみなイエス様のくびきを、それぞれを背負っているのです。十字架を知らない、あるいは知ろうとしない人々は背負っていません。彼らはもっと重い、彼らの力ではなんともできない、罪という重荷に耐えかねているのが現実です。赦された者は、親のそばにいる子供のように、安心していて、そして我がままに、自分の要求を出しているのです。私たちが経験したように、父や母が決して全能ではない、ただの人である、ということを知った時に大人になるのです。しかし、イエス様について私たちはその限界を決して知りませんからいつまでも、イエス様を父や母のように思えるのではないでしょうか。 |
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