2005年
5月15日

≪今週の聖書から≫
 
今朝の聖書の箇所は『マタイによる福音書』12:14〜21です。先週はペンテコステを喜びのうちに待っている弟子たちの姿を通して学びました。この朝の中心のテーマも、望みです。
 
 私たちは皆、望みを持っていますし、どんなにおぼろげなものであっても、希望や願いを持っているはずです。今週の、あるいは今日の、というふうに、何かを願っているのではないでしょうか。ところが希望や夢というものは、そう簡単に実現するものではありません。実現してしまったら、それはもう希望とは言わないでしょう。

 聖書は、望みを申し上げることを良いこととしています。“何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(ピリピ4:6)”とあります。ですから、願いが実現するまで私たちは待つことになります。まず“本当にその願いが正しいかどうか”を神様と相談することをするでしょう。いらいらしつつ待っていたり、ねたみのうちに待つのは、その願いそのものの正しくないことを示しているのではないでしょうか。

 次に、待っている間に、実現した時の準備をすることができるのです。学びや訓練といえるようなものも全て、実現した時のためにあることは明らかです。そしてその次に、実現された喜びを思う存分に味わうことができるのです。十分に準備をしたことですから現実になったことに無理なく対処し、また十分に喜ぶこともできるのです。

 今日の聖書の箇所も、望みについてです。私たち“全ての”です。それを国民と言おうと、民と言おうと同じですが、“多く”ではないことに注意しましょう。一人も残さない、ということがまず強調される。彼に従う者を全て癒されたのです。

 聖書には17節にあるように、何箇所か禁止の命令がありますが、この箇所も、魔術的な内容として捉えられることを避けようとされたのでしょう。そのことが次の18節のイザヤ書の引用箇所からわかります。“正義を異邦人に宣べ伝えるであろう”というところを見ましょう。正義、それはキリストを知っている者が、キリストに力を頼る時にはじめて、しっかりと信仰者のものになる力であることを、マタイは強調したかったようです。またイザヤの引用箇所は、“何々しない”ということを、悪を行わない、ということで説明されていることにも注意したいものです。

 聖霊を頂くものは、奉仕をしますが、また、喜びのうちに、悪を行わないものなのです。
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