2005年
5月8日

≪今週の聖書から≫
 今朝の聖書の箇所は、『ルカによる福音書』24:44〜53、この書の最後のところです。証人と言いますと、事件や裁判といった言葉が思い浮かびます。いずれにしてもかたくるしい感じの言葉です。“確かにそうだった”とか“間違いなくそうだ”という体験をもつ人が、公にそのことを口にするとき、証人になるということでしょう。

 それでは何についての証人かと考えてみると、“旧約聖書が成就したこと”が確かだということ、“確かに私たちは見たし経験した”と言うことでしょう。今の教会と同じことです。証人が証人を生み出し、“紛れもなく確かだ”とキリストのことを確認し続けているのが教会なのです。『マタイによる福音書』では“あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し・・・(28:19)”となっていますが、ルカにとっては、当たり前のことだったのかもしれません。マタイと違って“あなた方は証人である(48節)”ということに始まっています。“なりなさい”とも言っていません。

 次の指示は“都エルサレムに留まっていなさい”ということです。聖霊による力を得るのがその目的です。聖霊の下ることもまた限りなく確かなことですから、あえて“信じなさい”という命令は伴っていないのです。残されたことはただ待つことでした。マタイの記述とはずいぶん違った書き方をしていますが中身は同じことです。ルカは教会の最初の歴史について『使徒行伝』に続けてこの書を記しています。“ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう(使徒行伝1:8)”とあります。クリスマスの時に約束された、大きな喜び“恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える”ということの真の意味が52節において実現しているのです。

 また、悔い改めが世界中に広まることについてはどうでしょうか。バプテスマのヨハネによる悔い改め運動との違いは、“その名による”ということと“あらゆる国の人々に及ぶ”ということです。私達のところにも、この証人によって伝えられたことが知らされているのです。さらに“悔い改め”と言うことが語られるとき、教会員は、最初に書きましたように“証人”ですから、尋問される立場にあるのです。“神様が私たちに何をしてくださったのか”について証言することになっているのが私達のようです。
トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置