2005年
5月1日

≪今週の聖書から≫
 
今朝の聖書の箇所は『マタイによる福音書』6:1〜15です。
 “義”と言う言葉にまず注意が集まるでしょう。正しいこと、悪を行わないこと、正義感を貫くこと、また法律用語のようにも聞こえるでしょう。

 聖書は神様との関係に関する書物ですから、旧約聖書においても新約聖書においても、義とは“律法を確実に守る人の行為”、またイエス様によって示された救いに関して、神様との関係を正しく保つことを意味する場合に多く使われます。ですから“これが正義だ”などと主張するというよりも、“何が義なのでしょうか”と神に問い求めるといった性格の強いもののようです。

 次に注目の集まる言葉が“偽善者”です。2節に書かれているように、偽善者の目的は“人に誉められることにある”というのです。結果的に誉められるというのではなく、目的が“誉められること”にある、というのです。誉められてはいけませんとは一言も書かれていません。このことを“隠れたことを見ておられる、あなた方の父なる神が誉められる”と言っているのです(4節)。

 しかし私たちは、祈っていることを人に言いたくなるものです。クリスチャンの中心のひとつが祈ることと言ってもよいわけですから、大いに素晴らしいことです。しかし、人に聞かせるために、また祈っていることを多くの人々に見せるために祈っているとしたら、また上手に祈ろうと思っているとしたら、聞いているのは人で、神様に聞いていただく余地すらなくなってしまいます。イエス様はこのような姿を“偽善者の姿”として指摘していらっしゃるのです。

 6節以降、“あなた”という単数にとって代わります。“偽善者や役者たちではないあなた”です。“密室での祈り”とあるのは具体的な部屋であるばかりでなく、“心の中で”という意味がより強く込められています。

 7,8節にはさらに間違った祈りについて記されています。“くどくど”とありますがもともとの言葉は、繰り返してと言う意味です。何回祈ればよいとか何時間祈ればよいと言うのは、異教徒の人々が偶像に、“本当に効き目がある神ですか”と言いながら祈る姿なのです。“主の祈り”と言うとても大切な祈りについて書かれる前に、このような注意が教えられているのです。

 “主の祈り”については実に多くが教会において語られますが、今朝はひとつだけ、“われらの父”について考えて見ましょう。8節にその答えがあります。父であるからこそ、求めない先から“私にとってよいこと”の全てをご存知なのではないでしょうか。
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