2005年
3月27日

≪今週の聖書から≫
 今日からしばらく、その日の主日礼拝で開かれる聖書箇所を見てゆきたいと思います。

 今日はイースター。豆知識ですが、春分の次にくる満月の直後の日曜日を祝うことになっています。先週の金曜日は、受難日でした。日本語には随分暗い言葉に訳されましたが、聖金曜日などとも言います。英語になると
Good Fridayなどと言われたりします。

 祝う、又は記念するといいますが、何を祝うのでしょう。1節に“安息日が終わって週の初めの日”とあります。それまでの安息日といえば、第七の日、創造の神が休まれた日のことでした。現在に当てはめれば土曜日に当たります。つまり週の初めの日の出来事をマタイは報告しているのです。日曜日の出来事です。キリスト教会は日曜日を聖日とし、この復活の日の朝に聖日礼拝を守るのも、日曜日にこの出来事があったからです。

 私たちがこの日を祝うのは、まず神様がこの日を祝われたからでしょう。私たちが独力で、何か自分たちで成し遂げたことがあって、それを祝うのではありません。十字架上で、全ての人々の救いの成就を成し遂げられた主イエスが、死人のうちから、その死に打ち勝って、私たちのために、神様によって甦らされたことを知って、それがまさしく自分たちの救いのことであったことを知って祝うのです。

 5節に“おかかりになった”と、知らせを受けるために墓に導かれた二人に語りかけているように、“かけられた”ではないのです。“御心のなりますように”とあるように、イエス様は、自らを十字架にかけた人々に向っては祈られませんでした。“御手に委ねます”と祈られたように、父なる神に祈られたのです。また私たちもそのことを知って“三日目に死人のうちよりよみがえり”とキリストについて告白するのです(“殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた”と16:21にあること、その他の箇所を28:6節は語っているのです)。二人のマリヤのように、私たちにも出来事を伝える役目を期待しておられるのです。

 ここで語られているのは“伝えなさい”です。私たちの毎週の礼拝も、この完全な救いの成就に支えられているのです。ですから喜ぶべきなのです。私たちの教会はまず“信仰者の奉仕と義務”などと考えがちなこともありますが、神様は奉仕など必要とされていないのです。まず“喜び”なのです。毎週の礼拝はまず“神様が私たちに奉仕してくださること”と考えてみたら、どんなに主の恵みの豊かであるかがもっと分かるのではないでしょうか。
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