2005年
3月20日

≪先週の聖書から≫
 ≪先週の夕礼拝の聖書から≫ 
 先週、夕礼拝・祈祷会では『創世記』2章が開かれました。ご一緒に開きましょう。
 神は人に“エデンの園”という素晴らしい環境を用意され、そこに彼を置かれたのです.日本にも“名は体を現す”という言葉がありますが、彼は知ったものに次々と名前を付け、その一つ一つを他のものから区別しました。

 しかし神の考えは、“それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。(20節)”というものでした。この“ふさわしい助け手”が女なのです。神様は男女があることを良いこととされました。男ばかりとか、女ばかりだったら、この世の中はどんなに平板なものになっていただろうかと考えてみれば、私達にも分かります。ところが現実の世界では、男女があることによって、沢山の不幸も生み出しているのです。好ましいものとして創造されたものと争わなければならない、これも私達の罪といえます。

 最初、アダムは色々なものに名前を付けましたが、彼にとって本当に必要なものにはまだ会えていなかったのです。“「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」(23節)”という最高の喜びを持って彼は女を迎えることになるのです。呼び合うことの素晴らしさと豊かさです。

≪来週は市議会議員選挙の投票日≫ 
 来週は市議会議員の選挙の日になります。教会はこの選挙に如何にかかわったらよいのでしょうか。教会が時の政治権力に支えられていた時代もあります。キリスト教国家と呼ばれているような状態です。また反対にキリスト教が政治権力によって排除されたことも、古代の教会も戦時中の日本の教会も経験しました。教会の側からも、政治とどのように関わったらよいのか色々と考えられたのも事実です。

 さて、選挙についてはどうでしょうか。“浮動票”が多いとか“投票率が上がらない”などいつも聞いているような気がします。しかし“民主主義”の一つの基本的仕組みがこの普通選挙であるのも事実です。そしてこの普通選挙が実施されるようになったのは、戦後のことです。民主主義者や男女平等を考える人々、そして忘れてはならないのがクリスチャンなのですが、実に多くの犠牲が払われ勝ち取られたのがこの普通選挙なのではないのでしょうか。
 “関心が無い”というのではなく、その意味と、それがどんな歴史を持っているのかに心を向けたいものです。

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