2005年
3月13日

≪先週の聖書から≫
 先週、夕礼拝で開かれた聖書の箇所は『マタイによる福音書』13:10〜17でした。“たとえを用いて話す理由”についてのところです。是非聖書を開いてください。

 イエス様は二つの話方で天の国について話されます。一つは“はっとするように現実の生活の中でのたとえを用いないと分からない人”に対する話し方と、17節に“多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。”とあるように、直接神の国の奥義を、私たちに“福音を信じなさい”と話して下さるような方法でした。そしてたとえを用いても、なかなか分かろうとしない人たちがいる、とおっしゃっているのです。
 このような人々のことを旧約聖書に“この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである(15節)”と書かれていることを用いて説明しているのです。
 見なければならないことにではなく、見えてくることに心が縛られていることは、私たちにもよくあるのではないでしょうか。

 総会の時には『ルカによる福音書』17:7〜10が開かれましたが、このことと深く関係しています。
 私たちが、この上もなく豊かな神様の僕であることに心を留めないでいると、“たとえで教えられてもなかなか分からない人”になってしまうのです。“評価されないから教会の仕事もしない”、“誰も私に重きを置いてくれない”、などなど信仰から離れそうになっているために、実に簡単なことも分からなくなってしまっていることはよくあります。しかし“何故たとえでお話になるのですか”と聞くことの出来る弟子達、すなわち教会の人々のことですが、この人々は聞くべきことが聞こえ、見るべきものが見えている人なのだ、とおっしゃっているのではないでしょうか。主の弟子として受難週を過ごし、イースターの喜びを迎えたいものです。

 このマタイの箇所を読むときに、注意しなければならないのがこのことです。分かる人と分からない人がいる、とは言っていますが、何故イエス様はたとえで語られるのでしょうか。“弟子とされるため”ではないのでしょうか。
 ですから始めから最後まで、救われない人々ということはどこにも書いてないのです。主の十字架が見える一人一人として、今日教会に集うことの出来ることに感謝をしましょう。

 

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