2005年
2月27日

≪先週の聖書から≫
 先週の夕礼拝では詩篇70篇が開かれました。
 詩篇全体についてですが、私達は口語訳聖書と新共同訳聖書などを使いますが、かなりの篇で、最初の書き出しのところを一節にするかしないかで、中身がずれていることがあります。70篇もそうなっています。新共同訳では6節まであるのに口語訳聖書では5節までになっている代わりに、口語訳の“聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの記念の歌”に当たるところが新共同訳では1節に取り込まれています。聖書の節は後から付けられたもので、中身そのものとは関係ないものですが、“何節について”という言葉だけを読んだり聴いたりする時に思わぬ間違いになることもありえますので気をつけたいものです。

 詩篇70篇には、もう一つ、文章として興味深いことがあります。それは詩篇40篇の後半部分とそっくりだという事です。40篇から取り出されたのか、70篇が40篇の中に盛り込まれたのか、或いは正真正銘、別々に詠まれた歌が、その内容があまりにも神の真実であるために同じものになったのか。私たちに詩篇をとても身近なものにしてくれる問題のようなものでしょう。

 さてこの詩篇ですが、1節に“すみやかに私を助けてください”とあるのと、5節の“急いで私に来てください”という、“すぐに”という同じ言葉が使用されています。文法的には命令形なのです。主に対するこの上もなく強い思いを表しているこの命令形の間にはさまれている内容ですが、どんなものでしょう。

 “尋ね求める”という言葉に注意してみましょう。“すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/つねに「神は大いなるかな」ととなえるように。”が4節です。その前に今度は、“わたしのいのちをたずね求める者どもを恥じあわてさせてください。”と2節にあります。これは仕返しの祈りでしょう。敵対者が私を狙い、その狙われた私が神様を求めるという構造になっています。この報復の祈りや思いは、新約聖書には出てきません。

 私たちには多かれ少なかれ仕返しやねたみというものがあります。シェイクスピアは「リヤ王」でこの嫉妬心がどんなに人を動かすかを描いています。日常的な心の自然な動きから、神様がそのねたみを、イエス様を通して解決してくださったと見るのが正しいようです。

 クリスチャンは嫉妬心を持たないのだ、というところから出発するのではなく、それを見つめ、神様への感謝にまで高めてくださるのが、イエス様が私たちに対して示された愛なのです。

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