2005年
2月20日

≪先週の聖書から≫
 先週の総会の時に開いた聖書の箇所は、ルカ17:7〜10でした。是非聖書を開いてみてください。「主の御名によって・・・」とよく私達は言いますが、この主は主人を意味します。我々はすなわちその僕、聖書に時代で言いますと、奴隷ですといっているのです。

 しかし、ただ主人の栄光のために、とか、私達は御言葉に導かれた僕、などとは、なかなか言いにくい時もあるのではないでしょうか。おそらくそれは、自分の成果にしたがる、自分自身を知っているか、同じく主人に仕えているということを理屈では知っていても、教会員同士が争っている姿を自分の中に見るときにそうなるのではないでしょうか。“私のやり方が正しい”、“私のほうが貢献度が大きい”また反対に“私はたいした事は出来ていない”など、これらはいずれも僕の言葉ではない、と例えの中でイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。
 
 私たちが死ねばイエス様の損益になります、なぜなら、奴隷というのはもともと代価を支払って買い取られた存在だからです。教会の中に、これは私たちの教会だけではなく、全てのといって言いいと思うのですが、教会の中に見られるいざこざの、多くはこの種の、独立した自分に頼った姿“面白くないからしない”、“私のほうが正しい”というこころに根をもっているときが多いのではないかと思います。これは、自分を忘れてしまう事でも、お互いに訓育しあうことを戒めているのでもありません。

 7節に“あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか”と書かれているように、私たちが教会の主になることを戒めているのではないでしょうか。

 “弟子たちがクリスチャン(キリストのもの)と呼ばれるようになった。”と使徒11:26にありますが、今も変わらずそうなのです。イエス様の例えを続けるとすれば、“如何に上手に、畑は耕されなければならないか、また牧場の管理の仕方は・・・”など、知っているものが、主人のために、知らない人に教えてあげるのは当たり前のことです。“知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、・・・”というのがコロサイ3:16にあります。

 反発しあいながら教会を支えることは出来ません。イエス様は無限に力のある方、その方の僕なのですから、この世のどんな力ある者より、私達は自由なのだということを、受難節に入った今週、忘れないようにしたいものです。

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