2005年
2月13日

≪今週の聖書から≫
 先週、夕礼拝では、聖書ではなく、聖書がどのような読み方をされ、どのように教えられてきたかについて見てみました。私達の聖書には“神話”と言った方が遥かに多くの人々に理解してもらえそうな、創造の記録から、天国の姿に至るまで、実に多くのことが記されています。
 繰り返しになりますが、この聖書は、“教会によって読まれてきた”、そして“教えられてきた”という視点から見るのも大切なことなのです。

 “いったい何が書かれているのだろう”という問いは、聖書を大切にする人々にとっては実に重要なことでした。そして、その結果を伝えなければならないものと理解したのです。私たちが、“教会ならば当然”と思っていることの中にも、長い時間にわたって研究され、伝えられてきた内容が沢山あります。例えば、“三位一体”という言葉がありますが、聖書のどこを開いても“神様は父・子・聖霊の神である”とは書かれていません。聖書をよく読んだ信仰者たちがこのように理解し、私たちに教えてくれているので、私達は“使徒信条”を告白できるのです。

 『ディダケー』又は“十二弟子の教え”と呼ばれる二世紀の文章があります。その第七には、洗礼を教会が授けるときの極めて具体的なやり方が記されています。“バプテスマは次のような方法で授けよ・・・”と書き始められている文章ですが、まず“練習し、訓練されていなければならないこと”が書かれています。今でいう洗礼準備会でしょう。
 次に、今も変わることの無いことですが“父と子と聖霊の名”によって洗礼が授けけられなければならないことが書かれています。三位一体の神への理解がはっきりと現れています。
 
 また“授ける者と受ける者とは断食をし、他の者も断食せよ。そしてバプテスマを受けるものには1日、2日前から断食をするように命じよ・・・”などとあります。これらの理解は何を示しているのでしょうか。洗礼が決して、その受ける人個人のものではないということです。教会の営みに関わること、もっと日常的な言い方をしますと“仲間に加えられる人のこと”という理解がその当時から、この文章の資料として重要性には幾つかの議論があったにしろ、はっきりと書かれていることがわかります。

 このような大切なことをはじめ、“流れている水”が望ましいが“流れていない水”“(体の具合などでは)温かい水”でもよいこと“(更には今日で言う)滴礼”でもよいことが記されています。滴礼も浸礼も、効力においてはおとらないことが書かれています。私達は教えに支えられているのです。
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