2005年
2月6日

≪先週の聖書から≫
 先週、礼拝では聖書箇所『マタイによる福音書』で伝えられている「山上の説教」と普通呼ばれている箇所の“こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(5:3)”を中心に、そしてその前後が開かれました。

 “心の貧しい人”ってどんな人でしょう。聖書に出てくる信仰者には、律法の定めや、それに伴い与えられる社会的評価を“貧しくない”と考えていた人が大勢いました。またそれについてゆけなくて悲しんでいる人々もいたようです。イエス様はこのように、信仰面においても社会的評価の面においても、低いとされていた人たち、救いが必要であると考えられる人々を指してこのように言っておいでになるのです。

 私達はどうでしょう、強いものを持っているのではないでしょうか、神学をしている人たちにもそのことは言えます。沢山本を読んで沢山のことを勉強している、時にはこんな姿勢を、ハングリー精神などと美化されることさえあります。心のうちに“強いもの”を持ってそれに拍車をかけて生き抜こうとしているのです。

 しかし私たちの熱心は、心の核のところにある強さに向けられるのではなく、イエス様の教えに向けられなければならない、すなわち、私たちが大事にしている自信のようなものの、どんなに弱いかを知るところに向けられるべきだというのです。富と豊かさが同じに見えてくる社会、私達はこんな社会に生きている時の多いものです。大切にしている、誰にも譲れない自分らしさ、このような力のどんなに弱いことか、このような自分に頼って、“誰も助けてくれるはずなんて無い”とばかりに頑張った結果が、家庭において、仕事においてあらゆる面で、どんなに悲惨な結果に結びつかざるを得ないかはよく経験することです。

 イエス様の十字架にすがるとき、なんだか頼りないような気がしないでしょうか。決して頼りないものでは無いとイエス様は、また回復不可能な失敗など無いのだと、教えておいでになるのです。自分であみ出した力にはるかに勝る力を実際の社会の中で、主はいつも共にいて、私たちに、“こんなときにはどうすればよいのか”、“正しい仕事の方法や、勉強の仕方”まで、実に親切に与えてくださっているのです。貧しさに取って代わってイエス様の確固たる心に支えられた人と、強い自尊心に支えられ、なんともうまく行かず、時には諦めに導かれる、不満足の中に生きる状態と、どちらが幸せでしょう。現実を克服する力を神様から頂きたいものです。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置