2005年
1月30日

≪先週の聖書から≫
 先週夕礼拝では『マタイによる福音書』8:1〜4が開かれました。
 
 群衆がイエス様について山から後を追うようについてきました。イエス様の話が素晴らしかったし、イエス様、何についてかは、明確には分かっていなかったかもしれませんが、何か素晴らしいことをして下さる方ということで、ついてきたのです。その中に、らい病を患っている人がいました。今と違って、医学もまだまだ発展していなかった時代のこと、らい病というのは信仰上の汚れとして考えられていました。病気というよりは、その人全体が汚れた存在として理解されていました。

 ここに登場する人も、らい病を患っているということで、大変な差別の中にいたことははっきりしていました。それでもこの人は、自分の願いをイエス様に言うことが出来ました。

 “この病人はイエスに答えた、「水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」”という記録がヨハネ5:7にあります。このところも、病気を治して欲しいという願いをもった人のことが書かれている所ですが、この人は今見ている人と違って、色々と理由を考えて、読み様によっては、自分の病気の治らないのは人のせいなのだ、とも取れるような説明をしています。あきらめていたのです。“あなた方の願いを素直に申し上げるが良い”と聖書には書かれていますが、なかなかそのようには出来ないときのあるのが私たちではないでしょうか。率直に神様にお願いすることが出来るように、今一番して欲しいことを考えるのも大切なことです。
 マタイが記録している人はこのことが出来たのです。わたしたちもこのようにしたいものです。

 次に不思議なことが記されています。“口止め”です。多くの群衆の中にはきっと、イエス様を魔術をする人か、不思議な業を持った人としか捉えていない人としかいたからでしょう。神の国がやってきたという福音を知らなければ、呪いになってしまいます。このことを警戒されたのです。病気が治ったかどうかは、すなわち、清くなったかどうかは、当時祭司が決めることでしたので、この世がきちんとこの人を受け入れるために、祭司に見せなさい、そして回復の宣言を受けなさい、とおっしゃいました。そして世の中がそうするように、モーゼの定めに従ってささげものをするように、とアドバイスを与えています。

 私たちも願いを申し上げるときに解決も与えられるのです。口止めしたことを誰がばらしたのか分かりませんが、この大切な記録に感謝しましょう。

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