2005年
1月23日

≪先週の聖書から≫
 先週は『マタイによる福音書』4:18〜25が開かれました。

 説教題は「最初の弟子」でした。

 “イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。”と19節にあります。要するに神の国がやってきたことを人々に告げ知らせて、イエス様と同じ働きを担うものとしようとおっしゃっていたのですが、弟子達は、と言ってもこの時はまだ最初の弟子になりかけていた弟子達と言うべきかもしれませんが、彼らは心に主の御霊を受け、そして選ばれることによって、全てを捨てて付いて行ったということになります。

 “人間を取る漁師”というのは福音のために働くと言う意味ですが、この弟子達がどこまで理性を持って分かっていたかは別です。ただ船、網、父、全てに勝ってイエスに付いて行くことが大切だと思った、ということは本当のようです。父や家族を捨てて主に従ってゆく姿、なかなか格好良いようにも見えますが、旧約聖書に反する福音はない、とおっしゃった主イエスにしては、随分残酷なようにも見えます。“大切なものを捨てて”というのは、新約聖書の一つの課題かもしれません。
 
 どんな意味なのでしょうか。反対のことを想像してみれば分かります。家族や財産やすべてのものに責任を取り大切にすべく努力する。これが信仰の無い時の姿かもしれません。しかし、それ以上は何も出来ない、という無力さにこのような姿勢はすぐにぶつかってしまうのです。自力で解決に努力したにもかかわらず、こんなことになってしまった、という話しをいくつ私達は見聞きしていることでしょう。イエス様はこのことおっしゃっているのです。本当に大切にしたかったら、その大切にする力を主イエスから、神様から頂かなければ、我々の力にはおのずと限界がある、ということなのです。

 イエス様の弟子、普通十二弟子と呼ばれますが、10章の最初のところにその一覧が載っています。実に色々な人たちでした。マタイは自分のことを、収税人マタイ、と自己紹介していましたし、熱心党の人もいました。この熱心党というのは、ユダヤの信仰を貫くためには暴力の行使もやむを得ない、と考えていた人です。『マルコによる福音書』3:17には“またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた”と雷の子という興奮しやすい弟子まで紹介されています。

 イエス様は救いを必要としていた人を弟子として選ばれ、主にあっては、不調和も一つになれることを示されたのです。

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