2005年
1月16日

≪先週の聖書から≫ 
 
聖書の箇所は『サムエル記上』16章からでした。
 まず、どんな出来事があったのか、キシュの子であるサウル王についてみましょう。イスラエル初代の王でした。主なる神は、“あなた方の主が王であって、あなた方には王は要らない”と言われましたが、“私たちにも王を!”ということになり選ばれたのがサウル王でした。しかしこのことは、神に対する大きな罪でした。

 サウルの在位はBC1020年頃〜1000年ころで、ヨルダン川東側の民の侵略を撃退して北方諸部族の王に推され、サムエルにより認定されました。そして海岸地方より持続的な軍事的圧迫を加えていたペリシテ人に対抗するために,伝統を超えた軍事行動を試みてサムエルから見捨てられるという、悲惨な結果をもたらします。サウルは、神の人であるサムエルに代って神にいけにえを捧げるということを行い(サムエル記上、13:8〜18)、この事が主の怒りに触れたのです。ダビデの軍事的才能を恐れて殺害を企てるなど、晩年は精神的に不安定になった様子も聖書はきちんと記しています。そしてペリシテ戦にも敗れて,長子ヨナタンと共にギルボア山で戦死してしまいます。両者の戦死を悼むダビデの“弓の歌”『サムエル記 下』1章は有名です。

 続いてサムエルはサウルの次の王に相応しい人物を選ぶことになります。今日の聖書の箇所は、この箇所に位置しています。“エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり”とマタイ1:6にありますがこれらの人物が全て登場してきます。私達はマタイの系図など、読み飛ばしてしまうときが多いのですが、旧約聖書に書いてあることを少し思い出すだけで、ただの系図の内容がとても豊かなものになります。

 さて、主は預言者サムエルを通して、サウルを選ばれ、ダビデをベツレヘムで選ばれました。16:7を見ましょう。“しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。”とあります。神の選びと人の思いについて、いつも変わらない真実を語っています。ダビデはもともと選ばれる対象にはなっていなかったのです。“「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。”と11節にあります。この人が実はダビデだったのです。

 さて、私達は何に選ばれるでしょうか、楽しみです。その人でなければならないところに、神は遣わされるのです。

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