2005年
1月9日

≪先週の聖書から≫ 
 先週の聖書箇所は『マタイによる福音書』2:13〜23でした。主イエスの誕生に伴って起こった出来事についての記録です。説教の内から幾つかの箇所についてみてみましょう。

 まず、更に一週間前に開かれた聖書の箇所になりますが3節です、“ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。”とありますが、“人々もみな”とあることに注意しましょう。ヘロデといえば、イエス様に反対した悪者のように簡単に思いがちですが、市民の多くがそのように思ったとマタイは記録しています。イエス様は民全体の救いの啓示として誕生されましたが、罪もまた、民全体のものだったのではないでしょうか。一人の悪人がいるということは、その悪人を支える大きな基盤があるということなのです。

 16節に“非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した”とあるのがその結果だったといえます。

 次の箇所に進みましょう。18節に出てきます。“「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」”とあります。まず“声がラマで聞えた”とありますが、誰が聞いていたのでしょうか。不特定多数の人々でしょうか。マタイはこのことに拘っています。エレミヤの預言の成就として説得しているこの箇所は、罪の結果です。かつてイスラエルの民はその罪の結果、捕囚として連れ去られました。『エレミヤ書』で言えば31:15に“「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない」”とあることを示しています。結論はきっと神が聞いておられた、ということになるでしょう。私たちが悲しむとき、それは私たちが救われることを必要としている神様ご自身の悲しみとなるのです。

 もう一つ“慰められることさえ願わなかった”というのはどんなことなのでしょうか。それほどすさんだ心に包まれていたということかもしれません。私達は慰められることを願うはずです。なのに“誰の慰めも役に立たない”と不平をこぼすまでに荒れすさんでいるのが世界かもしれません。イエス様が立ち向かわなければならなかった世界は、こんなに衰えてしまっていたといえるでしょう。

 この時代も尚、教会はこんな、癒しを拒否する世界に向き合っているのでしょう。

トップ アイコン トップ アイコン
トップページヘ戻る 説教集へ戻る






直線上に配置