2005年
1月2日

≪先週の聖書から≫
 元旦の聖餐礼拝では、『申命記』11:1〜12が開かれました。新年に相応しい箇所です。それはただ単に“年の始めから年の終りまで、主の目が常にその上にある”という年賀状によく書かれる御言葉があるからだけではありません。“その地” 乳と蜜の流れる国とはどんな所なのかを考えてみましょう。

 第一にその地は素晴らしい地です。“そこで永く生きることが出来, あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない”と記されている地なのです。
 第二にその地は“その昔、イスラエルに約束された地”なのです。そして約束なさったのでは神様だったのです。決してモーゼやアロンではありませんでした。聖書が繰り返し繰り返し、語っていることです。ですから永遠の保証の地ということが出来ます。ご自身の民に約束された地なのです。丁度今私たちには、“永遠の救いに導きいれられた”という保証があるのと同じことです。電化製品のように1年とか3年の保証ではありません。これが、新年に相応しい未来が今年、私たちに用意されているのだというメッセージになるのです。

 しかし三番目に見てみなければならないことがあります。一言で言えば“私達はこの世の証拠で確認したい”という思いを持っているということです。それは主なる神への信仰と経験による確信に支えられるのですが、それがなかなか難しいことなのです。新しい1年、私達は幾度も、神から離れようとしている自分がそこにいることに気付くか分かりません。信仰のことを考えている人ほどそうかもしれません。砂漠の40年を経験してきたイスラエルの人々もそうだったのです。“一体私たちを何が待っているというのか”というのが、彼らの不満でした。しかも指導者なるモーゼらにそのことを追及しようとしたのです。“あなたは、神の言葉だといって私たちを砂漠の中に連れ出し、殺してしまうつもりなのか”といいました。6節に書かれている、ダタンとアビラムにされたこと、とあるのはこのことです。彼らは神に守られない道を選んだのです。すなわち自力を信じたといえるでしょう。私たちも、自力を信じたくなるときが多いのです。イスラエルと等しく、我らの持っている力は神から与えられていることを忘れないようにしたいものです。

 この年私たちを色々のことが待ち受けているに違いありません。良いことが待っているという信仰に立ちましょう。教会に帰り、教会から出て行っているのだという基本に立ち返りましょう。神の民だからです。
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