2005年
1月1日

≪先週の聖書から≫
 『マタイによる福音書』2:1〜12が開かれました。キリストの公現についての箇所と呼ばれているところです。新共同訳聖書では「占星術の学者たちが訪れる」という小見出しが付いています。

 イエス様は、多くの人々にその誕生・顕現(エピファニー)を示されましたが、羊飼いと博士に対する知らせが聖書には記録されています。当時、羊飼いといえば決して社会的に恵まれた人々ではなく、権威あるといわれる仕事でもありませんでした。博士たちにいたっては、イスラエルの民の歴史とは関係なく、星に神の意思を見ようとするゾロアスター教の教職だったとすれば話が上手く合う、というのが今一般に考えられていることです。イエス様はその大いなる啓示を、恵まれない人々と、世界の救いの印として異教徒に知らされたと言えます。

 さて、この誕生の話を聞いて面白くないのがヘロデ(ヘロデ・アンティパス)でした。自分の身分を脅かす存在が預言された、なんとも不安に感じたことでしょう。このことに対するヘロデの対処は、後に記録されています。男子幼児の大量虐殺がそれです。

 私たちにとってもこの考え方は他人事ではないときが実に多いのではないでしょうか。芽の小さい時につんでおかなくては大変な妨げになる、などとしばしば考えもし、教えられもすることです。今の私に財産があり、周囲が平和であるかのように見えても、力の大小に関係なく、敵を排除しつつ、抵抗勢力のことばかり気にしていなければならない状態は、平和ということとも関係のない、実にストレスに満ちた状態なのです。つまり「信仰者の道は勝利の道」ということがよく言われますが、これも排除を意味する言葉ではありません。

 博士たちに戻りましょう。“そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。(2:12)”とあります。彼らの心は救い主に会えた喜びに変えられていたのです。帰るところは同じでも、別の道を通って、即ち違う生き方をする者へと変えられたのです。そういえば羊飼いたちもそうでした。“恐れるな”といわれて恐る恐る確かめにいって、イエス様に会った時から、“彼らは見聞きしたことが本当だったので、喜び勇みまた人々にそのことを伝えるものに変えられている”ことが分かります。

 以前の私たちにはキリストに出会おうとしない罪があったのかもしれません。しかし、出会ったからには、生き方も変えられるのではないでしょうか。主に出会ったときからです。
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