2004年
12月26日

≪先週の聖書から≫
 クリスマス礼拝の説教は『マタイによる福音書』1章18-23からでした。

 イエス様誕生の次第と書く前に、特にユダヤの信仰を持っていた人の為に系図から書き始めています。“すごい系図だから価値がある”というのではなく、旧約聖書に書かれていることが本当であったことの証拠の為にそうしたのでしょう。生き証人のいるうちにしっかりと起こった事柄を書き記さなければ、という、マタイの緊張感に支えられた書物です。

 19節ですが、“夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した”とありますが、正しいというのは、律法に定められていることを守ろうとするという意味です。20節などは、“妻マリアを迎えなさい”としたほうが、筋書きからしても、文法からしても正しいようです。また“離縁”という言葉が使われているように、ヨセフとマリアは夫婦だったのです。そして、ユダヤのしきたりでは、いいなずけはもう律法の上では夫婦なので、その間に夫以外の子供ができるということは律法における姦淫の罪に値するのです。両親を悩ませ、そのようなややっこしい状態の時に神様は、ご自身の一人子をこの世に送られたことになります。神様にとって結婚は大切なものだったからかもしれません。最初の奇跡を起こされたのもカナの婚礼の時でした。

 次にインマヌエルに進みます。旧約聖書のイザヤ書7:14を引用してこのことをマタイは説明しています。教会・教団の名前にまで使われているこの称号「
インマヌエル」は“我らと共にいる神”という意味で、マタイの最後28:20の“見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである”と響きあっていることが分かります。この聖書そのものがインマヌエルの神の啓示についての中身の書と言えるでしょう。

 更にここで、イエス様のおいでになる目的が書かれています。“彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである”と21節にあるのがその目的です。罪は人を不幸にし、人から見ても神から見てもいびつな状態にします。クリスマスの時こそ、“神にとっての一人子を人のために送らなければどうしようもない程の状態にあった”私達の状態にも目を向けたいものです。“神にとってクリスマスの出来事が必要であった”ことを、誕生の物語を通して学びましょう。聖書ではその後すぐにヘロデと住民の、すさまじい罪について記されています。

 

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