2004年
12月19日

≪先週の聖書から≫
 
聖書の箇所は主日礼拝、主日夕礼拝とも『マタイによる福音書』11:2〜19でした。

 バプテスマのヨハネは、キリストのやってくることを人々に知らせ、ヨルダン川のほとりで悔い改めのバプテスマを授けるという、信仰上の運動をしていました。聖書に出てくるように、これに参加する“弟子”或いはグループのような集団になっていたようです。しかしキリストがやってきた、ということは、この世の特にユダヤの伝統に支えられることによって権力を得ているものにとっては“抵抗勢力”そのものでした。それがヨハネの幽閉状態に置かれることになった原因でした。

 メシヤが何故、御自身を指し示した者がこのような状態に置かれることを放って置かれたのか、弟子達には不思議でしたので、“行って聞きなさい”とヨハネはアドバイスをします。しかしイエス様の答えは内容についての説明ではなく、“見聞きし理解したことを報告しなさい”というものでした(11:4)。「私たちなら何と答えます」聖書はそんなことを問題にしているようです。

 そしてイエス様は、ヨハネの弟子達が帰ってから、群衆にも “皆さんは何を信じ、何を見に来たのか”と話します。“風に揺らぐ葦”とあるのは、なんでもないものの例えに使われる言葉です。貴方がたは悔い改めのバプテスマを受けるために荒野に出てきたのではないか、まさか“裕福な生活の手段を求めてやってきたのではあるまい”というのがイエス様の指摘でした。8節に“柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる”と記されている通りです。
 
 更に指摘は続きます。“あなた方の信仰を見ていると、結婚式ごっこや、葬式ごっこをしている子供たちが「誰も付き合ってくれない」と苦情を言っているに似ている”、要するに“我々の思うようなキリストなら信じもしように”と言っているのが聞こえる、というのです。神の国というのは、遠い最後の審判の時にやって来るのではなく、もう来ているのです、あなた方が闇の世に味方するならば、神の国は、今現在、攻撃されているのです、とイエス様は言葉を続けられます。“天国は激しく襲われている(11:12)”とあるとおりです。また、イエス様が食事をすれば「食事が必要な神なのか」と言い、神の国を知らせているヨハネが粗末な食事をしていると“あれは悪霊につかれているのだ(11:18)”と人々は解釈したのです。

 クリスマスの時に、私たちがどんなイエス・キリストを見ているのかを再確認したいものです。
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