2004年
12月12日

≪先週の聖書から≫
 今週、水曜日の聖書研究祈祷会では、大石兄によって『ガラテヤ人への手紙』4:1〜13が開かれ、ともに学びました。

 さてガラテヤの教会、その地方の教会とはどんな状況の教会だったのでしょうか。エルサレムの教会についで、最も早くイエスキリストの出来事が伝えられ、信者の数も増えてゆきました。

 しかしここに問題がありました。大げさに言いますと、どんな神学に教会が支えられていたかということです。手紙を書き送ったパウロも、このことには随分心を砕きました。本当にキリストがおいでになり、教会を立てあげてくださったということが正しく理解されていないと、彼には思われたのです。

 “ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。(3:1〜2)”という箇所がありますが、“一度ユダヤ教信者になってそれから出ないと、まことのキリスト者にはなれない”と主張する群れがあり、パウロはそのことを言っているのです。現在で言えば、注意して使わなければならない言葉ですが、異端といえるかもしれません。

 “しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。(4:9〜10)”とあります。神を知っているのに、この言葉は私たちに対するものと同じです。知っているのに、月日を守っているというのは、なすべき行事やしきたりのみを目的として尊重し、そこに救いや恵があるかのように思い込んでしまっているのではありませんか、ということでしょう。

 知るべき神があるとすれば、“私たちを知ってくださっている神がいる、それが神様だ”ということなのです。

 私達は今クリスマスを迎えます。月日を守るためにクリスマスを計画しているとすれば、疲れだけが残る、そして恵を確信できないクリスマスとなるでしょう。人々が経験した最も偉大な出来事、クリスマスを迎えるに当たって、決して昔そうであったように、律法の世界に逆戻りするのではなく、“既に子である身分が与えられていること”を忘れないで、クリスマスの行事に取り組みたいものです。(文責:村上)
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